想定外が大嫌い(2011.10)


 もろもろの庶類のために不請の友となる。群生を荷負してこれを重担とす。(無量寿経)

 「想定外」この春以降、何回この言葉を聞いたことでしょうか。
 津波に関して、そして原発に関して、なぜこれほどの被害を出してしまったかの説明に使われた「想定外」。ではなぜ想定できなかったのでしょうか。それには大きく2つの心理が働いていたと思います。
 まず、想定することが効率的でなかったから。何十年に一度起こるかどうかわからないことのためにコストはかけられないと。この社会で「効率」はいつしか絶対善となりました。しかし効率を追う過程で振りほどいたものの中に、かけがえのないものがありはしないかという振り返りは必須のものであることは胸に留めておきたいことです。

したくなかったから

 しかし想定外を招いたのは効率よりも、想定したくなかったからしなかった、想定することが嫌だったからしなかったということが一番大きいように思えてなりません。
 都合の悪いものは見ないで済まそうとする。それだけでなく、そこに存在しないものとさえしようとする。一見して不合理であり幼稚な行動と思われますが、それを無意識にしてしまうのがどうやら人間と言えそうなのです。
 今回の事態に関連してある本を教えてもらいました。『昭和16年夏の敗戦』。著者は猪瀬直樹氏。ドキュメンタリー作家であり、現東京都副知事の猪瀬氏がまだ30代半ばだった頃に出版された作品です。
 舞台は昭和十六年の夏の日本。時の日本政府は日米開戦の可能性が高まる中で、日本中の若いエリートたちを集めて総力戦研究所を作り、日米戦の予測をさせたのでした。その結論は必敗。

昭和16年夏すでに

 報告を聞いた東條陸軍相はこう発言したと伝えられます。
「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というのものは、君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というのもは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。したがって、君たちの考えていることは、机上の空論とはいわないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということでありますッ」
 想定したくないことを想定しないで突入した日米戦争で、戦況はかつて総力戦研究所が想定したまさにそのままをなぞるように進み敗戦に至ったのでした。
 それらの失敗を嗤おうというのではありません。結果の影響度の差はあるにせよ、私たちには想定外を想定できない性質があるようです。
 あってほしくないことは考えない。見たくないものは目の前にあっても意識に残さない。それはある意味で自分を守る手段なのでしょう。四六時中いろいろな危険や可能性に考えを向けていたり目の前の情報をすべて受け止めて処理をするなどできることではないのですから。しかしだから仕方ないと済ますには私たちは大きな力を持ちすぎてしまったようです。戦争にしろ、原発にしろ。

想定外のすくい

 阿弥陀仏は別名を「不可思議光如来」といいます。光は「智慧」であり、如来は「真実の作用」です。
そして不可思議とは「思いを超えている」「想像できない」すなわち「想定外」のこと。つまり「私たちにとって想定外な真実の智慧のはたらき」をするが阿弥陀仏ということになります。そしてそのはたらきはよく「すくい」と表現されます。
 阿弥陀仏のすくいは、私たちが一般に想定するすくいとは外れています。私たちが想定するすくいは、自分の望まない状態から抜けだしたい、自分の嫌なものを排除したい、自分の思い通りになってほしい、などというものではないでしょうか。あってほしい状態を仮定して今の状態がそちらに移行することがすくいだと考えるのが一般です。しかし阿弥陀仏のすくいはそうではありません。当人の望みを叶えるのがすくいだとは阿弥陀仏は示していないのです。
 ゲーリースナイダーという詩人に「すくいは必ずやってくる。しかしあなたの全く知らなかったあり方で」ということばがあります。当人をそのままにして当人の望みを叶えるのではなく、望んでいる当人まるごとを抱きとることで、当人がもっていた望みの意味も方向も変えてしまうのが阿弥陀仏のすくいのあり方なのです。
 私たちは想定外のことが嫌いです。だから、阿弥陀仏のことが嫌いです。そのことを先刻承知の阿弥陀仏は自身を「不請の友」と自称します。請われずとも友になる。なんとも煩わしいことですが、その友があることで、あってほしくないことも考え、見たくないものも見、それらの排除が自分のためにはならないことへの気づきが導かれるのです。■


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