学ぶということ(2011.3)
ただよくきき、心中のとほりを同行にあひ談合すべきことなり(蓮如上人御一代記聞書)
春。卒業や入学、生徒や学生は学年が変わり、先生や学友も変わるこの季節は、一年のうちでももっとも学業への意欲が高まる時といえるかもしれません。
この時に、読んでいただきたい本があります。学校に通う当人だけでなく保護者も、そして何歳であっても「学ぶ」ことに興味がある方ならぜひ手に取っていただきたい本。『先生はえらい』(内田樹著・ちくまプリマー新書)。この本は出版された6年前にも紹介しましたが、もはや私にとっては基本図書。きわめてやさしい語り口でありながら、学ぶということ、そしてコミュニケーションの本質についてとても深い気づきへ導きます。著者の内田氏は何冊もの著書をお持ちですが、その中で代表作を考えた時に、私はこの本をあげたいと思います。
取引ではない
教育の現場において、先生の位置はかつてとは比較にならないほど低くなっています。先生が尊敬されなくなっています。それはなぜでしょうか。先生の質が下がって、尊敬できるような人がいないから、というのが大方の見方のようですが、それを根本的に見直してみましょう。
そもそも、「学ぶ」って何でしょう。先生と生徒の関係はどういうものでしょう。
私たちは往々にして、「学ぶ」とは、先生が有している知識や技術を、授業料を払ったり講義への出席に時間を費やしたりする対価として生徒が手にいれるという「取引」のようなものだと考えがちです。
しかし「取引」と「学び」は決定的に違います。「取引」では、受け手は自分がこれから何を手にするかをあらかじめ知っています。コンビニのレジで100円を払ったのに対して、店員が何を渡してくるかわからないということはありえません。しかし「学び」というのは、事前どころか、手にしてもなおそれが何かが分からないものを受け取ることなのです。価値がわからないものを渡された時に人はどうするでしょう。価値がわからないので自分には不要と考える(だけじゃなくて怒ってしまう)か、価値がわからない自分を未熟と考えてとりあえず受け取ってみるか。「尊敬できる先生がいなくなった」と嘆いている人は前者に重なるような気がします。
「わからない」からつながる
「取引」と「学び」の違いは、実は先生と生徒という以前に、人と人とが関係する上で日常的に私たちが感じていることです。人と会話をするということを私たちは、AさんからBさんに情報を移動することと単純に考えがちです。でもちょっと思い返してみてください。自分が話をしていた相手から「わかったわかった」と返されると、なんとなく不愉快になりませんか。伝えたい情報がちゃんと届いていれば取引としてはそれでいいでしょう。しかしそれだけでは割り切れない何かが残ってしまうのです。それは、「わかった」というのが「もうこれ以上話さなくていい」という断絶の意思表示になることもあるからです。
「私たちが会話においていちばんうれしく感じるのは、『もっと話を聞かせて。あなたのことが知りたいから』という促しです。でもこれって要するに、『あなたが何を言っているのか、まだよくわからない』ということでしょう?(略)恋人に向って『キミのことをもっと理解したい』というのは愛の始まりを告げることばですけど、『あなたって人が、よーくわかったわ』というのはたいてい別れのときに言うことばです」「『わかる』ことは、コミュニケーションを閉じる危険とつねに背中あわせです。」(同書)
つまりコミュニケーションとは、「わからない」状態を喜びとして重ねていく作業とさえ言えると思うのです。そう、「わからない」から、先へいく。「私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるのは、そこに『誤解の幅』と『訂正への道』が残されているから」(同書)なのです。
日々実践
ここでの「学び」や「コミュニケーション」は仏教の場においてより鮮明になります。学ぶことは自らの殻が破れることであり、話し合うことは出遇うことです。学びの価値を決めるのは自分ではありません。逆に、何が役に立ち、何が有用で、何が価値があるかを揺さぶられる体験が学びです。ある先輩は念仏についてこう喝破しました。「念仏は殻を纏った自らが崩壊する音である。新たな人生の産声である」。そして、蓮如上人は繰り返しこうお諭しです。「四五人の衆寄合ひ談合せよ、かならず五人は五人ながら意巧にきくものなるあひだ、よくよく談合すべき」「一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよくきき、心中のとほりを同行にあひ談合すべきことなり」間違えてはいけないよ、ではなく、間違うものだ、だから談合(コミュニケーション)しよう、とおっしゃっています。
「いつまでもわかりません」法話会の場でよく耳にすることばです。はい、だからぜひもう少しご一緒しましょう。
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