ひとつの事故から(2010.12)


 わが心のよくて殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし    (歎異抄)

 今年もいよいよあと数時間。この一年に起こったさまざまな出来事をふりかえって、ひとつ、私が忘れられない事故があります。
 その夜、私の携帯に知人からメールが入りました。
 「京王線新宿駅ホームでのニュース聞いた?怖いねー。お互いに気をつけよう」
 京王線新宿駅ホームでのニュース。すぐに思いあたりました。以下、産経新聞の記事を引用します。
「二三日午後八時三五分ごろ、東京都新宿区の京王線新宿駅ホームで、電車を待っていた七〇〜八〇代の男性が隣にいた男にぶつかられ転落、入線してきた電車と接触し電車とホームの間にはさまれた。男性は救助されたが病院で死亡が確認された。
 警視庁新宿署は過失傷害の現行犯で、日野市南平、アルバイト、A容疑者(四二)を逮捕、過失致死容疑に切り替えて調べる。同署の調べでは、A容疑者は酒に酔っており、電車が来たため立ち上がろうとしてよろけ、男性にぶつかったという。」
 尚、新聞掲載時は容疑者名Aは実名でした。

視座が違った

 京王線は私が一番使っている路線です。ニュースを聞いて、ほんとうにいつ誰から危害を加えられるか分からないな、ホームの端にいるときは気をつけよう、いやホームの端を歩くのは避けようと思ったものです。
 そして後日。先のメールをくれた知人と会った際にその件が話題に挙がりました。知人はこう言うのです。「本当にぞっとしたよ。自分も思わぬところで人を殺しかねないんだなって」
 えっ、と思いました。実は私はその時まで自分が被害者になる可能性への怖さしか抱いていなかったのです。しかし知人は当初から、自分が加害者になる可能性への気づきからメールをしてきたのでした。そう、重大な結果をもたらしたA氏がしたことは、具体的にはただよろけただけです。それは私だっていつでもしかねないことなのに、当初の私にはそこに想像が至りませんでした。
 ただ言い訳をするなら、マスコミの事件報道には偏見を誘導する要素が少なからずあったように思います。前記の記事をさらっと読むと、事故の原因となった男性A氏は「まだ時間も早い午後八時に足下もおぼつかなくなるほど泥酔した四二歳アルバイト」と受け取れないでしょうか。ちょっとだらしない人物像が浮かんできます。そんな人間とは自分は違う、という思いもわいてきます。それに誘われたのでしょう、ネット上にはA氏の実名と現住所をあげて「人間のくず」と攻撃している文章が数多く残っています。
 また、事故の数日後の朝日新聞社説でも、「時間が遅くなると、酔客が増えてくる。近頃は、ホームや車内でアルコールの缶を持ち、駅員につっかかるオヤジを見るのも、日常茶飯だ。駅という公共空間で、人はこんなにも無防備で、無関心で、無遠慮になっている。確かに安全柵は必要だ。だが一人ひとりの『心の安全柵』の方こそ、もろくなってはいないか。」と記しています。この文章ではただ自他の被害者性を喚起しているだけで、読者の不安を煽ることにしかならないのではないでしょうか。

自他を丁寧に

 A氏は傷害致死容疑で逮捕をされましたが、その後、この件には責任なしとして不起訴となりました。A氏がこの時にホームでうずくまり、よろけてしまったのは、飲酒のせいではなく、持病の高血圧からのめまいのせいだと認められたのです。そのことは続報として小さい扱いに留まりました。まったく報じなかった社もあります。持病があるのに混んでいるホームにいたこと自体を非としたわけではないでしょうが、結果として一個人を誹謗したままになっているとともに、世間に小さいながらも不安の種を蒔いてしまったことに、マスコミとしてもうちょっと自覚的であってほしいものです。また同時に私自身も、マスコミ報道に対しては、冷静に、そして想像力を忘れずに接したいものと改めて思いました。
 親鸞聖人の「わが心のよくて殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし」という言葉を思い出します。縁によって、ほんの少しのきっかけによって、被害者にも加害者にもなりうる我が身を生きているのが私たちです。その可能性の前にはもっと謙虚になってしかるべしと思います。しかし、その自覚を持ち続けることは徒に自他を怖れることとは違います。それは自他の存在を丁寧に受け止めることに他なりません。
 

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