しあわせってなんだっけ(2010.10)
親鸞は父母の孝養のためとて一遍にても念仏を申したること未だ候はず (歎異抄)
仏教って要するにどういう教えですか?とたまに尋ねられることがあります。
このあまりに単刀直入な問いへは場合と相手によっていろいろな答がありえますが、このところは私はこう答えることが多くなりました。「しあわせへの道です」と。
昔の子どもはかわいそう?
「しあわせ」と聞くと皆さんは何を連想されるでしょうか。お金持ちになること、試験に受かること、仕事が成功すること、あるいは健康であること、恋愛が成就することでしょうか。
先日の日本経済新聞に興味深いアンケート結果が紹介されていました。対象者は小中学生二百人です。質問は「昔の子どもはかわいそうと思うとき」。結果は次の通りです。上位から挙げていきましょう。
@土曜日にも学校の授業があった。
Aインターネットがなかった。
B面白いゲーム機がなかった。
C携帯電話がなかった。
Dエアコンがなかった。
Eテレビが小さく白黒だった。
Fコンビニエンスストアが無かった。
G学校の給食がおいしくなかった。
H家の手伝いをしなければいけない。
Iテレビが家に一台しかなかった。
いかがでしょう。土曜日に学校の授業があったことが第一に挙がっているということは、今の子どもにとって学校は楽しいところではないということでしょうか。いえ、子どもが勉強を嫌うのはいつの時代でも同じですので、学校自体というよりも授業=勉強が嫌ということかもしれません。
そしてそれ以下は見事に、モノがなかったことを「かわいそう」と見ています。インターネット、ゲーム機、携帯電話、大型テレビ、エアコン、コンビニ。たしかに今年の酷暑を思えばエアコンのない生活はかわいそうと私も思います。しかしそれらのモノはたしかにあれば便利で快適でしょうが、なければ不便かというとそうでもないし、ましてかわいそうというのとはちょっと違うというのが昔の子どもだった私たちの正直な実感と思います。むしろ、昔の子どもをかわいそうと感じてしまうほどにモノに依存してしまっている今の子どもたちを、「かわいそう」と思ってしまうのは決して負け惜しみではないでしょう。
幸は枷
便利なモノを享受している子どもたち、いや、私たち。モノに溢れた生活は一面では確かに「しあわせ」な姿と言えるでしょう。しかし同時にそのことでモノに縛られた「ふしあわせ」に陥ってしまっていることもあると思います。
しあわせは一般的には「幸」と書きます。この漢字の成り立ちをご存知でしょうか。幸は象形文字です。上部の「土」と下部の「干」が二本の線で繋がっているこの字は、もともと枷(かせ)、手錠を表わしていました。人を繋ぎ止めて自由を奪う枷=「幸」がしあわせの意味を持つようになった経緯は実はあまりはっきりしていません。一説では、枷をはめられていた罪人が、それを外された時に感じる感情が幸になった、とも言われますが、私はむしろ、幸とは繋がれた状態そのものなんだと考えた方が自然と思います。モノや人に繋がれた、客観的に見れば自由を奪われている状態が、幸。うなずかれる方も多いのではないでしょうか。
私がはじめに提示した「仏教はしあわせへの道」と言った時の「しあわせ」は実は「幸」ではありません。
お手元の辞書で「しあわせ」を引いてみてください。ほとんどの辞書でまず「仕合わせ」とあって、次に「幸せ」とあるはずです。「しあわせ」は「仕合わせ」です。これはさらに遡れば「為合わせ」と表記されていました。為=為されたことが合わさること、つまり「めぐりあわせ」「他者と出会うこと」をしあわせと呼んだのです。ですので元々は、良いことだけではなく自分が望んでいない悪い事態も「しあわせ」とすることがあったようです。
仏教がしあわせヘの道であるというのは、まさにこの意味、「他者との出会い・他者の発見」においてです。ちなみに、浄土真宗で一番大切にしているお経は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』ですが、早口で読んでも3時間以上かかってしまう膨大な文字量の中で、「幸」という文字はただ一箇所見られるだけで、しかも「しあわせ」という意味では使われていません。
為合わせるしあわせ
親鸞聖人は「親鸞は父母の孝養のためとて一遍にても念仏を申したること未だ候はず。その故は、一切の有情は皆もて世々生々の父母兄弟なり。何れも何れもこの順次生に仏に成りて助け候ふべきなり」とおっしゃいました。
誰もしあわせを求めない人はいません。しかしそれによって互いを傷つけあうことが少なくないのが私たちです。自らのみのしあわせを求める心性が、他者の切り捨てや無視を選択し、結果的に自らの基盤さえ失ってしまうという愚を私たちは繰り返してきました。他者との出会いはすなわち自分との出会いです。枷をはめてきた自らを見つめ直し解放することで開かれる仕合わせは、もしかしたら私たちのまったく予想しない姿で立ち現れるかもしれません。 |