2本の映画から(2010.3)


我が身の悪き事は覚えざるものなり。(蓮如上人御一代記聞書)

 今年度の各種の映画賞が発表される季節になりました。
 その中で、キネマ旬報ベスト・テンと日本アカデミー賞の両方で外国映画部門第一位となったのは、クリント・イーストウッドが監督・主役を務めた『グラン・トリノ』でした。
 時は現代。主人公ウォルトは偏屈なアメリカ老人です。現役時代はフォードの熟練工としてアメリカ経済の黄金時代を支えた彼は、現在は妻を亡くし、子どもの家族とも折り合いが悪く、愛車の整備と小さな庭の手入れだけを日課に一人暮らしをしています。かつて自動車産業で栄えていた町はさびれ、近隣の家はアジア系移民ばかりになりました。彼らを毛嫌いし接触をもたないウォルトでしたが、町の不良グループに絡まれている少年タオをひょんなことから結果的に助けたことにより、モン族の人びとと交流を持つようになります。

希望は「変化」の中にある

 ウォルトは父親のいないタオの親代わりとなって、タオを一人前の男にさせるよう指導を始めます。それは滑稽なほどステレオタイプです。そう、ウォルトの人生はあるべきアメリカ、あるべき男性、あるべき父親像の追求の連続だったのです。
 タオとその家族は、不良グループからふたたび狙われます。常にM1ライフルを携行し、誰彼構わずに銃口を向けることで自らを護ってきたウォルトでしたが、タオが暴力による報復に走ろうとするのを目の当たりにして激しく葛藤します。なぜなら、ウォルトは朝鮮戦争時に自らが行なった加害行為への罪悪感に今に至るまでなお苦悶する日々を送っていたからです。
 そしてウォルトはこれまでとは全く異なった方法で不良グループのアジトに向うことを決意しました。その行動は、それまでのウォルト(つまりアメリカ)の歴史を全否定するに等しいものでした。ウォルトは自身の全存在をかけて、タオに、自分そしてこの国が今あるべき姿を示したのでした。希望は変化の中に生まれるという気づきとともに。
 この映画のテーマはいくつも挙げられます。「多民族の共生」「魂の救済」「暴力の連鎖からの脱却」「自らの殼の再構築」そして「被害・加害観の見直し」。思えばこれらは、二一世紀に入ってからのアメリカ(に先導された世界全体)のテーマそのものと言ってもいいかもしれません。それらに対峙する上で欠かせない姿勢としてクリント・イーストウッドが提示したのは「自他の変化を尊重し、承認すること」でした。
 「あるべき、あるはず」という自他への拘泥や執着は、新たな関係の発見と構築を阻害します。それは、本来は広がりゆくはずのいのちを矮小化する態度とも言えましょう。

負の歴史の上に

 また、『グラン・トリノ』はその設定を知るにつれ、作品の奥が二重三重に深まります。
 アジア系移民を毛嫌いする国粋主義者の主人公は、ボーランド系移民です。「古き良きアメリカ」に固執するウルトラ保守の彼自身がかつては被差別の闖入者として見られていたことが想像できます。
 また、彼の隣人であるモン族は、もともとラオス少数民族で、かつてアメリカには政治難民として入ってきた歴史があります。ベトナム戦争時にアメリカは勇敢なモン族の人びとを高報酬により傭兵とします。しかし戦況が悪化するとアメリカはモン族を見捨てます。それにより、ベトナム戦争においては米兵の死者が六万だったのに対し、モン族の死者は二〇万人にもなりました。
 戦後、米軍に協力したモン族の人びとは報復の対象となり難民化します。モン族はアメリカの負の歴史を背負っていると言ってもいいかもしれません。
 映画のラストでウォルトは、自分の分身でありアメリカの象徴である愛車のグラン・トリノを、モン族の少年タオに託します。タオが晴れやかにグラン・トリノを駆る姿はこの世界の未来を映しているのでしょうか。

現代を生きる者の作法

 今年のキネマ旬報ベスト・テンの文化映画部門では、以前にポピンズの一一六号で紹介した『沈黙を破る』が第一位となりました。これは、イスラエル軍を除隊した若者たちが、パレスチナ占領地で自分たちが行なってきた非人道的なことを直視し、イスラエル市民に語り伝え、共に考えようとする運動を追った作品です。民族、暴力の連鎖、自らの殼、被害・加害観などなどの「壁の超克」をテーマにした点で『グラン・トリノ』と通じるものが多々あります。これらはまさに現代を生きる者の宿題なのでしょう。
 その中でも特に「自らの殼」、具体的には「正義」「被害者意識」の超克は、現代に生きる者の最重要課題と私は思います。正義や被害者意識は自己を酔わせます。そして、それは固い鎧となって結果的に他者と生きることを阻害します。そうではなく、いかなる場面でも自分を「被害者」と規定せず、「当事者」として、一方の「当事者」と相対することはできないでしょうか。それは現代を丁寧に生き抜く上の必須の作法と私は考えています。■

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