絶望の反対語(2009.9)


酒はこれ忘憂の名あり、これをすすめて笑ふほどになぐさめて去るべし。さてこそとぶらひたるにてあれ。  (口伝抄)

 ふだんなにげなく使って、意味を自明としている言葉でも、その反対語を考えるとより深く味わえることができます。
 まず有名なところで、「愛情」の反対語は何でしょう。ふつうに考えると「憎しみ」のようですが、マザーテレサはこう喝破しました。「愛情」の反対語は、「無関心」。
 確かに、アンチ○○というのは裏返しのファン心理とよく言われますが、この言葉はそういうような、反感や怨みの感情が愛情の一種だと主張しているものではありません。「無関心」を選択し、物事に関わらないことでそのものへの責任を回避できると思いがちな私たちに対して、そうではなく、関心を持たないということ自体が大きな暴力でありマイナスの関与の仕方なのだと糾しているのでしょう。
 関心という回路が断たれた、あるいは失われたところに広がる茫漠は,人の生きる力をどこまでも吸い取っていく底なし沼のようでもあります。愛情の反対語は無関心。我が身を守るためにも胸に刻んでおきたいことです。

「ありがとう」の反対語は

 さて次の問題。「ありがとう」の反対語は何でしょうか。
 「ありがとう」に反対語があること自体、考えたこともなかった方がほとんどではないでしょうか。
 私が小学校二年生の子どもたちを相手にこの質問をしたところ、こんな答が返ってきました。「余計なお世話!」
 なるほど。それもまあ当たっているなあとも思います。でも、もっとしっくりくる言葉があるんです。それは「あたりまえ」。
 しっくりくるどころか、全然わけ分からないとお感じの方もいらっしゃるでしょう。これは「ありがとう」の元の意味からたどるとご納得いただけると思います。
 「ありがとう」は漢字では「有難う」と書きます。有ること難し、すなわち「ありえない」ということです。「ありえないことがここに起こった!」という叫びが「有り難し」。つまり「ありがとう」とは「びっくりした」という驚きと感動の言葉だったのですね。感動が感謝に転じるのは自然のことでしょう。
 それに対して、何を見ても、何をされても「あたりまえ」、花が咲いても、友や親が心配してくれても「あたりまえ」。そのように驚きがないところには感動はありません。したがって感謝も喜びも生まれません。
 「ありがとう」と言える世界は驚きに満ちた新鮮な世界です。

「希望」じゃなく

 では最後です。「絶望」の反対語は何でしょう。
 この問いを発したのは、歌手の宇多田ヒカルさんだそうです。宇多田さんはある日、周りのスタッフにこう問いかけました。「ねえ、『絶望』の反対語って何だと思う?」スタッフたちはみんなで考えましたが「やっぱりそれは『希望』じゃないですかね」。しかし宇多田さんは「うーん、なんか違うんだよねー。私は『絶望』の反対語は『ユーモア』だと思う」。
 はー、私はこの答に心底納得しました。
 ユーモア。この言葉を新明解国語辞典で引くとこうあります。「社会生活(人間関係)における不要な緊迫を和らげるのに役立つ、婉曲表現によるおかしみ」そう、ユーモアは社会生活(人間関係)にしか存在しません。大自然の中でただ一人でいたら、ユーモアは生まれませんよね。動物たちのしぐさにユーモアを感じることはあるかもしれませんが、その時には例外なく彼らを擬人化して見ているはずです。
 希望はどちらかと言えば頭に所属するものでしょう。それに対してユーモアは、体の反応のような気がします。自分の思いや予想を裏ぎって生じたおかしみ。絶望の中にいながらついクスッと笑ってしまう瞬間。絶望の緩和をもたらすのは、自らの内にある才覚や努力や不屈の精神ではなく、思いがけない他者との出会いです。それは宗教のはたらきと大きく重なります。

潤いある関係

 宗教のはたらきは、自らが後生大事に抱えている価値を揺さぶることです。
 親鸞聖人は非常に生真面目な方という印象があります。語録や著作からはユーモアはほとんど見られないと思われがちですが、そうでもありません。
 「念仏を申していても浄土に往きたいと思えない」という唯円の切実な問いに応えて「実は私もそう思っていたんだよ」。あるいは、遠路山坂を命がけで越えて尋ねに来たご門徒たちに対して「念仏して本当に浄土に生まれるのか、地獄に行くことになるのか、一切知らないんだ」と応える親鸞聖人。『歎異抄』に多く見られる「逆説的」と呼ばれがちな表現の数々は、逆説的というよりユーモアと見た方が適切なのではないでしょうか。
 ユーモアの語源はラテン語の「体液」だそうです。頭でっかちになって袋小路に陥った私を、潤し、ぬくもりを巡らせる体液。まさに仏のはたらきを思わせます。頭を軽くして体に聞く。それは知性の否定を意味しません。事態(社会及び心)の緊迫・膠着を察知し、緩和に向わせる働きはむしろ深い意味での知と智に導かれるものです。もっとユーモアを。

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