加害者・被害者関係を超えて(2009.6)


善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。(歎異抄)

 この春、日本中の人々の顔がマスクで覆われました。
 新型インフルエンザ。今は感染者が増えつつあっても冷静な対処がなされるようになりましたが、一時期は厚労省大臣をはじめとするみなが恐怖を自ら煽っていた感さえありました。
 感染者が多く出た関西地区への観光客は激減し、関西地区から修学旅行でディズニーランドへ向う中学生たちは出発の京都駅で旅行中止を告げられました。そう、この時期、感染者のみらなず関西圏に住む人々は「感染源」と見なされていたのです。
 首都圏で初めての感染者となった八王子(!)と横浜の高校生は、この時期に渡米したことの自己責任を負わされる以上に責める声さえ出ました。彼女らが通う学校には、批難とともに、感染した生徒の自宅住所と通学路を開示しろとの要求電話もあったと伝えられています。感染者を、自分たちに災いをもたらす「感染源」、すなわち加害者と見なす風潮があの時期に少なからずあったのは間違いありません。

患者は「被害者」か「加害者」か

 被害・加害観がもたらす不毛は少なくありません。
 今、臓器移植法改正論議が進められています。六月に衆院を通過した改正案は、脳死を人の死と認め、十五歳未満の子どもからの臓器提供を可能とするものです。しかしそもそもこの国の人々は「脳死を人の死とする」ということの意味するところを知らされていません。そして想像さえしてもいないのが大方と言っていいでしょう。そういう状況で「脳死を人の死と認めるか」と乱暴な問いを出すこと自体が作為的なのですが、それにより、重篤の患者側は、「無理解な世間」に「命を『奪われる』被害者」と姿を変えます。
 新型インフルエンザ渦において感染者は「加害者」と見なされました。他方、「臓器移植しか治療法はない」と告げられた患者は法の前の「被害者」と見なされています。いえ、法改正反対者からすれば患者は、脳死する人を待つ「加害者」でもあります。
 往々にして私たちは、ものごとを被害・加害関係の図式に当てはめたがります。それが問題解決の筋道であるかのように。しかし、本来は被害・加害関係ではないものをその枠に押し込んでも世界像はただ歪むだけです。

直視しよう

 今、全国で『沈黙を破る』というドキュメンタリー映画が上映されています。日本のドキュメンタリー作家、土井敏邦監督によるもので、元イスラエル軍の若者たちが、パレスチナ自治区で自分たちが行なった(そして今行われている)ことをイスラエル市民に語り伝える運動を記録したものです。
 イスラエル軍は、パレスチナ自治区の中に兵士たちを配置しています。その目的は治安とされているのですが、実際に行われていることは日常的な人権蹂躙であり、暴力です。パレスチナの人々の生活圏を突然コンクリートの壁で分断し、いくつも検問を設けて、病院などへのアクセスさえ遮断してしまうイスラエル軍。若い兵士たちは傍若無人な振るまいが当り前になり、次第に自分自身の尊厳も失っていくのでした。それを実感した兵士たちの多くはこれまで、自らを護るための方法として除隊してからも沈黙を選んできました。そうでもなければ精神の異常さえ招きかねなかったのです。それが今、沈黙を破る者が出てきています。我々がやっていることを素直に直視しようと。
 しかしそれに対するイスラエル市民の目は厳しいものがあります。市民らが主張するのは自分たちの被害者性です。自分たちがパレスチナのハマスによっていかに恐ろしい目にあっているか。実際には数字だけで比べれば被害者の数はイスラエルとパレスチナでは一対百の開きがあるのですが、それでも自らの正当性を疑わないその姿を、私たちははたして嗤えるでしょうか。
 映画『沈黙を破る』は、岩波書店から同名の書籍にもなっています。

存知せざる。されば

 加害・被害観は麻薬です。ある時は人を奮い立たせ、ある時は人を甘美に誘います。しかしその毒は人の体を知らずに蝕み、いのちをやせ細らせてしまうのです。もし願いが互いの破滅でないのなら、考えるべきは加害・被害ではなく当事者性でしょう。自分は、他者は、この事態に際していかなる形での当事者であるのか。立場は違えど同じ当事者として相手を見た時に、発せられる言葉は必ず変わります。
 親鸞聖人は「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」とおっしゃいました。自らの都合により他者をどうとでも判断をしてしまう私です。他者は「敵」と名付けた時にその姿を何倍にも膨らませます。善・悪、敵・味方、被害者・加害者という二分法に陥らずに丁寧に人と相対する。念仏が導くのはそういう生き方なのでしょう。

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