壁の前で(2009.4)


善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします(歎異抄)

 イスラエルのシモン・ペレス大統領の表情は次第にこわばりました。スピーチが終って皆が立ち上がり拍手をする中でも、なかなか立とうとしません。
 この2月15日に開かれたエルサレム賞授賞式での、村上春樹氏の受賞スピーチでのことです。
 エルサレム賞とは、国際ブックフェア内で表彰される文学賞です。人間の自由、社会、政治、政府というテーマを扱った著作を書いている作家が授賞対象となります。
 この賞を村上氏が受賞すると日本で報じられたのは今年一月下旬。まさにパレスチナのガザ地区へのイスラエル軍による空爆の惨禍が大きく広がっていた時期でした。死者は一三〇〇人、そのうちの半数が女性と子ども。もちろん民間人でした。読者や知人や親戚から村上氏に対して、賞を辞退せよとの声が高まっていきます。受賞するのはイスラエルの現今の行為の是認になるのではという懸念からです。当の村上氏も大きく葛藤した末に、受賞してスピーチをすることを決断します。「何も言わずにいるよりは、皆さん(イスラエルの人々)に話しかけることを選んだ」のでした。

間違っていても

「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても」そしてこう続けます。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵であり、硬い大きな壁に直面している。その壁は『システム』。本来は我々を護るべきシステムは、あるときはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人々を殺させる、と。
 村上氏のスピーチはイスラエルだけを批難したものではなく普遍性をもったものでした。しかし同じ言葉も語る場所で違う意味を生みます。村上氏の言葉は大統領の表情を固くしました。しかしその大統領のすぐ前でエルサレム市長は村上氏に握手を求め、「あなたの意見は小説家として実に誠実なものだ」と真っすぐに褒めたといいます。
 たとえ間違っていたとしても、卵の側に立つ。この宣言はなかなか出来るものではありません。村上氏がなんらかの信仰を持っているかは知りませんが(お父さんは僧侶でした)、私はこの言葉に非常に宗教的な響きを感じます。

毒矢のたとえ

 宗教へ一般の人が持つさまざまな誤解のうち、最大のもののひとつが、「宗教は『正しいこと』、もしくは『善』を教えている」というものだと私は思っています。宗教が伝えることが結果的に正しいことや善いことになることはあっても、それが先に出ることはありません。世間的に正しかろうが間違っていようが、善であろうが悪であろうが、悩み苦しむ人の側にある。それが宗教の立ち位置なのです。正邪の判断は本来は横に置いて、それより先に、今眼前で呻吟する人に関わることが大切だと、仏教は最初期から教えてきました。
 有名な「毒矢のたとえ」があります。
 ある青年が毒を塗った矢で射られた。すぐに手当てをしようとしたが、射られた青年は「手当ての前に、この矢を撃った者がどこの出身でどういう名前でどんな肌の色をしているかを知らなければ。」また、「この矢がどんな材質でどんな模様でどんな弓で撃ったのかをはっきりさせてから手当てをしてくれ」などと言っていたのでそのうちに手遅れになってしまった、という話です。
 これは本来は、現実の我が身を見ないで理屈ばかりをこねている愚を指摘しているものですが、現代にあってはもう少し解釈を広げてもいいように思うのです。「正しいこととと間違っていることの判断や評価は二の次でいい。まず眼前の苦悩に寄り添え」と。

呪縛からの解放

 この国では、実に十一年間連続して自殺者が三万人を超えました。自治体や民間が協力しながらの自殺対策はこの数年大きく進んではいますが、まだまだそれが結果には結びついていません。その原因のひとつに世間を覆う「善悪」の呪縛があるように思うのです。つまり、自殺はしょせん「悪」であり、そんなものと(「善」である)この私は関係ない、という呪縛が。
 自殺をした人については、さまざまな調査から、むしろ責任感の強い人がそういう事態に陥ることが分かってきました。そして本人の自由意思というよりも、さまざまな要因が重なり、追いつめられての結果が多いことも。誰もが可能性のあることなのです。そのことさえ了解できれば、予防にも、また遺族への応対にも、よりよい一歩が踏みだせるはずです。
 親鸞聖人は「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」とおっしゃいました。善悪とは違う次元に自分は立つ。ややもすると傲慢にも無責任にも聞こえるこの宣言は、現代を生きる上ではもっとも誠実な言葉なのではないでしょうか。

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