いのちの日 いのちの時間(2009.1)
慈眼をもて衆生を視そなわすこと平等にして一子の如し(教行信証)
昨年12月1日の夜、築地本願寺の蓮華殿において、「いのちの日 いのちの時間」と題した自死者追悼法要が営まれました。
自死(自殺)はまだこの社会ではタブーとされています。自死をする者は弱い者、無責任な者、いのちの尊さを分からない者と貶められることはこの社会ではまだ根強くあります。また、遺族などの近い人たちは、親しい人を失った悲しみと驚きに陥るのみならず、なぜ気づかなかったか、なぜ止められなかったかという責めを自ら、そして周囲から浴びせられます。
先日発刊された『自殺で家族を亡くして 私たち遺族の物語』(全国自死遺族総合支援センター編・三省堂刊)という本にはこんな遺族の声があります。
「たった二人で生きてきた人生の伴侶の心の闇を妻でありながら救うことができず、癒してあげることもできなかった自分を責め、私をおいて逝ってしまった夫を責め」
「後日、こういう声を耳にするようになりました。『お嫁さんを亡くした旦那さんは、棺の前を離れずにうなだれているのが普通では?』(略)『あなたが殺したも同然よ』(略)妻の親類は、私を何度も質問攻めにし、原因と犯人探しという遺族同士での足の引っ張り合いをしている状況に、私は疲れ果ててしまいました。堪え難い中傷と事実に反する言葉でしたが、自責の念と無力感に苛まれ、反論する気力もありませんでした。」
悲しむ機会さえ奪われる
「自死で残された者が、自分を責め続ける負の連鎖に陥ってしまうこと、生きるエネルギーを根こそぎ奪われてしまうことなど、多くの人が知りません。そんな現実があることをイメージさえできないのが、今の社会の現状ではないでしょうか。自殺という社会の偏見や根拠のない風評にさらされ、遠巻きに忌み嫌われ、語ることができない悲しみ苦しみを押し殺し、細心の注意を払って、息をひそめるように生きています」
そう語る男性はさらにこう綴ります。
「亡くなった大切な人との思い出さえ語ることができない、大切な人との別れを純粋に悲しむ機会さえ奪われてしまう」
お葬式や法事も、自死で亡くなったことを住職にさえ伏せて営まれることはめずらしくありません。それも、遺族にとっては大きな傷となります。手を合わせながら、本当のことが言えない。本当の気持ちが語れない。ちゃんと泣くことができない。悲しみを表出することができない。そこには法事は成立していません。
「いのちの日 いのちの時間」が勤まったのはそういう状況が下地にあるのです。
いのちを見つめる時間
当日は約一五〇名の遺族の方が参列されました。事前の新聞報道を読んで申し込まれた方や、主催団体の「自殺対策に取り組む僧侶の会」に所属する僧侶からの誘いに応えた方々です。遠く東北や関西からおみえになった方もありました。みなさんが安心していられる場所であるよう、当日はマスコミからの取材は一切お断りをしました。
法要は超宗派の僧侶により進行します。讃仏偈、そして他宗派の読経に続き、故人の名前が読み上げられる中、遺族から寄せられた故人へのメッセージが火にくべられました。
法要後は参列者が十人づつくらいに分かれて輪を作り、茶話会。それぞれの体験と思いをわかち合うひとときです。何を言ってもいい、名前は言わなくていい、ただ聞いているだけでもいい一時間。ここで初めて自分の体験を口に出来たという方もありました。また、ただ泣くだけで一言も発せずに席を立たれた方もいらっしゃいました。
当日、ご参加いただいたほとんどの方が書いてくださったアンケートでは、茶話会の時間が短かすぎたというご意見はありましたが、法要についてはどなたも感謝のことばを寄せてくださいました。法要儀式が人のいのちにはたらきかけるものは決してあなどってはいけません。
何ができる
自死遺族に対して、そういう体験をしていない者が何ができるのかと躊躇される方は少なくありません。その答のいくつかを『自殺で家族を亡くして』にみることができます。
「目の前にいる友人が、一人の友人として自分の体験を理解しようとしてくれている。自分のつらさを全力で受け止めようとしてくれている。そのことが大きな救いでした。ここで言いたいのは『共感してくれる人や、心の支えになってくれる人は、自分と同じような体験をした遺族同士とはかぎらない』ということです。少なくとも、私にとってはそうでした。」
泣ける環境、あるいはわかち合いの環境を作るのは念仏者としてまず取り組みやすいところではないでしょうか。環境とは特定の場所を言うのではありません。あなたが立つそこであり、私が立つここのことです。■
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