日本人って(2008.11)


仏法の讃嘆のとき、同行をかたがたと申すは平懐なり。御方方と申してよきよし仰せごとと云云。          (蓮如上人御一代記聞書)

 これから年末年度末に向けて、いろいろな賞が発表されます。しかしその中で、賞の行方が話題になるものはほとんどなくなりました。かつて自ら「輝く」と冠をつけていたレコード大賞も、ここ数年の受賞者を答えられる人はそうはいないはずです。
 それらの賞が衰退した理由は、選考結果に大方の納得を得られなかった故でしょう。その年の業績は二の次、商売の都合や事務所の力関係で受賞者が決まるのでは人々はシラケます。賞を出す、ということは、出す側がその資質を問われ評価されることに他なりません。

通常って?

 その意味で、ノーベル賞に権威が長年にわたって保たれ続けていることはそれ自体が称賛されるべきと思います。結果を誰をも納得させ続けているそのスウェーデン科学アカデミーは、今年、日本人に歓喜をよびおこす判断を下しました。
 この十月、ノーベル物理賞が日本人三名に授与されたとマスコミ各社は大々的に報じました。高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所の元所長・小林誠氏、京都大名誉教授で京都産業大理学部教授の益川敏英氏、そして米シカゴ大名誉教授で大阪市立大名誉教授の南部陽一郎氏。
 たいへんおめでたいことです。しかしこの報道の一週間後、新聞にこんな記事が載りました。
「ノーベル物理学賞の受賞が決まった米シカゴ大名誉教授の南部陽一郎さん=米国籍=について、文部科学省は、ノーベル賞受賞者数の国別集計では『米国』に入れることにした。しかし、国民的な受け止め方を踏まえて通常は日本人とし『今年の日本人受賞者は4人』などの表現をとることにもした。」(朝日新聞十月十六日)
 南部氏が渡米したのは戦後すぐの一九五二年。その後は生活も研究もアメリカに軸足を置き、一九七〇年には米国籍となります。つまり南部氏は日系アメリカ人です。しかし文科省は「国民的な受け止め方を踏まえて通常は日本人」と、表現するというのです。
 改めてマスコミ各社の報道を見直すと、大手新聞はすべて物理学賞受賞を「日本人三人」と見出しで報じています。記事中に「南部氏は米国籍」との断りさえ入れていないものもありますが、断っておいてなお「日本人三人」と書けてしまう心性も不思議です。そこでいう日本人って、何?

無邪気ゆえの陥穽

 文科省の言う「国民的な受け止め方」が、「めでたいことなら矛盾にも目をつぶる」という無邪気なものであろうことも理解できます。それに並んでおそらく、「姿形が日本人で日本語をしゃべれば日本人」というこれも無邪気な判断があろうことも想像できます。しかしその無邪気さが無意識な、だからこそ強固で頑迷な排除意識と縄張り意識を生んできたことも考えておきたいことです。
 フィンランド出身の参議院議員ツルネン・マルテイ氏は日本国籍を取得して三〇年近くになりますが、ネット上ではまだ「(ヘンな)外人」扱いが横行しています。映画評論家の町山智浩氏は、映画評の中で関東大震災時の朝鮮人虐殺に触れただけで、「韓国に帰れ!」という罵声を多数あびせられました。町山氏の父親が在日韓国人だったというだけの理由からで、ご本人は日本生まれの日本育ちの日本人なのに。
 相撲の世界では外国出身の力士が何人も活躍してきました。高見山、武蔵丸、曙、小錦、彼らは皆日本国籍を持った日本人ですが、今だに「外国人力士」の範疇に入れられ、しばしば日本文化が分かっていないという評がされました。また、武蔵丸などは好意的に「日本人よりも日本人らしい」とも言われましたがそれが透明な高ーい壁ごしの言葉だと発言者はどれだけ気づいているでしょう。
 そういう「国民的な受け止め方」を肯定して添うのが文科省の姿勢だとしたら、そこから導かれる教育方針に乗ることを私は謹んでご遠慮いたします。

御を冠して

 ある寺の掲示板に「仲間意識が仲間はずれを作りだす」という言葉がありました。仲間意識を持つことが必ず悪いというわけではありません。ただ仲間意識に大切なのは、相手の何が自分と同じであるかの見極めではなくて、相手への尊重であり素直な興味と承認なのでしょう。親鸞聖人は念仏の仲間を「御同朋」「御同行」と表現されました。それは念仏者とそれ以外を区別するための言葉ではなく、その方をまっすぐに大切な人と言われたものです。
 南部陽一郎氏の受賞は私もうれしく思いました。日本出身というつながりのある者として。グローバル化が否応なく進む今後、日系○○人は増えていきます。同時に、○○系日本人も増えていきます。日本文化は「日本人である自分たちが彼らに伝える」ものではなく、共に受け取り共に培っていくものでしょう。日系真宗人であり真宗系日本人の私もそこに参画しています。■

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