奸詐するわれ(2008.3)


外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり(正像末和讃)
 今年が始まってまだ二ヵ月少々ですが、それでもこれはおそらく今年を代表する事件のひとつに残るでしょう。殺虫剤入り冷凍ギョーザ事件。
 一月末、中国製の冷凍ギョーザを食べて中毒症状を起こした千葉と兵庫の三家族計十人が病院に運ばれたという報が流れました。するとすぐに、全国で同じような訴えが相次ぎ、スーパーの店頭からは瞬く間に中国製冷凍食品が撤去されることとなりました。

病気は内からも

 ギョーザを食べて体調を悪くしたと訴えた人はその後も続々と増え、医療機関や保険所に訴えでたその数はわずか三日間で一七〇二名にのぼりました。
 では問題です。そのうち、実際にメタミドホスや有機リン系の中毒症状が認められた人は、ごく軽症の人を含めて何人いたでしょうか。答は、〇。ただの一人も新たな中毒被害者は見つかりませんでした。
「このうち、四割強に当たる七三三人は有機リン系中毒と無関係の症状を訴えたり、国産のギョーザを食べていたりした人だった。残りの人はギョーザなど中国製冷凍食品を食べ、しびれやめまいなどの中毒症状を訴えた。うち二九六人が医療機関を受診し、八人が入院したが、いずれも軽症で、同省は中毒とは無関係と判断した。」(時事通信)
 なお、被害を訴える人はその後も増え続け、一週間後には二七四五人にものぼりました。が、それらすべてが中毒とは認められませんでした。おそらく訴え出た人たちは詐病ではなかったでしょう。たまたま、違う原因で蒙った症状をギョーザと結びつけてしまったか、毒を食べたと思ったことにより実際に体調を崩してしまったか。
 念のために申しそえますが、被害者の十人という数が少ないと言っているのではありません。また、被害者だと名乗り出た人を嗤っているわけでもありません。自分が食べたのが毒入りと同じ製品であったら、それだけで自ら病気になってしまう習性を持っているのが私たちだということです。
 私たちは自分を被害者と規定した瞬間、無意識のうちに、より完璧な被害者になろうとする癖もあるような気がします。そして一方では本当には存在しない加害者や敵を作り上げる。それを後押しするのは、自分は「被害者」であるという「正当」な「正義」の「公噴」です。

更新したのに

 話はかわって。
 日本の治安について、昨年三月の読売新聞の世論調査では、実に九〇%近くの人が「悪くなった」と感じているとのことです。
 しかし今年二月、警察庁から発表されたデータによると、昨年一年間の殺人事件件数は、戦後の六三年間で最も少ない数となりました。一一七三件。これは去年が特別少なかったということではなく、殺人を含めた凶悪犯罪は昭和三三年頃(『三丁目の夕日』の時代。人情や希望に溢れていたと現代人の憧憬となっている時代)をピークとしてずっと右肩下がりの減少傾向にあるのです。
 不思議なことに、この最少記録更新という喜ばしいニュースを、大手マスコミは一社として報道しませんでした。少なくともニュース価値はないと判断されてしまったということですが、うがった見方をすれば、あえて隠したとも考えられます。件数は最少を記録した、ではなぜ治安不安が広まっているのか、と考えを及ばされるとマスコミが不安を煽っているからという責を問われる可能性があるからです。まあその場合でもマスコミとしては、視聴者が望む報道を提供しているだけで責められるいわれはないと応えるでしょうが。たしかに、不安を煽る刺激的な報道の方により関心を寄せてしまうのも私たちの正直なところですから。

確かとは

 親鸞聖人は「外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり」と和讃におよみになりました。
「外面は立派な人物のようにふるまってはいても、実のところは貪りや偽りが多い」ために、「『奸詐』が身に充ち満ちている」というのです。「奸詐」とはよこしまに人を欺くことですが、それは他人に対してより、むしろ自分に対してでしょう。私たちは無意識に自分を欺きます。あるときは自分を正当化するために。あるときは自分を守(ることだと錯覚す)るために。                           あるときは自分の不安に導かれて。そしてあるときは新たな刺激を享受するために。
 仏教、そして念仏は、事実を見よ、と教えます。事実をそのまま受け取れ、と諭します。そしてそれが実際にはできない私たちであることを見抜いた上で、それなら、奸詐に満ちた自分であることを常に自覚しよう、と促すのです。念仏が導く確かな道とは、自分の危うさを確かめつつ歩く道と言ってもいいかもしれません。

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