本当だから、腹が立つ(2007.6)


自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた
つねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし。
(教行信証)

 お寺にいると、さまざまな営業の方がやってきます。営業は商品より先にまず自分を売れ、というのは鉄則。だから特に若い新人さんは、自分を分かってもらおうと、名刺に自分の趣味や好きなことば、座右の銘を書き込んでいることもよく目にします。
 それらはたいていは微笑ましく見られるものですが、特に好きな言葉などは、ちょっと選択を間違えると逆効果になってしまうこともあるようで。
 知人のY氏の体験談を紹介します。

読んでください

 Y氏が勤めていた職場の昼休みに、若い女性が営業に来ました。彼女は営業資料とともに自己紹介代わりに自分の好きな詩を印刷した紙を添えて挨拶して回ったのですが、そこに書かれていたのが相田みつをの作品だったそうです。
 若い娘が相田みつをに共感して大切に思っている。まあ美しいこと。好感度アップにつながることも期待できそう。
 しかしそこに落とし穴がありました。彼女が選んだ詩は「そのうち」。
  そのうち  そのうち
  べんかいしながら 日がくれる
 この作品自体は相田みつをの代表作と言えるもの。しかしこれを配った彼女の仕事は、生命保険の外交員だったのです。「そのうちそのうちと弁解しながら日が暮れる」とのことばとともに生命保険を勧誘されたY氏は、「これは脅迫じゃないか!」と激怒して外交員を追い返したとのこと。

痛いところをつかれた

 よりによって、であります。好意的に見れば、「そのうち」は彼女自身の自戒のことばであって、契約をとるための材料のつもりはなかったのでしょうが、内容がたまたま商品の性格に絶妙にリンクしてしまいました。嗚呼。
 それはそもかく、Y氏は後に振り返ってこう言うのです。自分はあのときなぜ、激怒したのだろう。それは「本当のこと」を突かれたからだ、と。そのうちそのうちと大切なことを先送りにしているのは紛れもなく自分だった。それを不意打ち的に指摘されたような狼狽が怒りとなったのだと。
 政治家の会見などでも、記者の質問に気色ばんで反論する姿があれば、あ、核心を突かれたな、と判断できます。
 私たちは本質的に、「本当のこと」に対して弱い生き物のようです。
「他人の噂は嘘でも面白いが、自分の噂は本当でも腹が立つ」
 あるお寺の掲示板にあった法語です。実際には「本当でも」ではなく、「本当だから」腹が立つといった方が正解なのでしょう。

怖れながら、怒りながら

 仏教は、「本当のこと」と向き合うことを勧めます。そしてそこで出会うのは、「本当のこと」と向き合うことを忌避し、逃げ続けである自分自身に他なりません。
 高光大船という念仏者は、ある寺の法話の席で、ひとりの若者にこう尋ねられました。「仏法って何ですか?」
 それに対して高光師はこう答えました。
「仏法はな、鉄砲の反対だ。鉄砲は相手を撃つが、仏法は自分を撃つ」
あまりピンとこない顔をしている青年に対して高光師は重ねて、「鉄砲は生きているものを死なせるが、反対に、死んでいるものを生き返らせるのが仏法だ」
「死んでいるものを生き返らせる?」いぶかしがる青年に高光師は「分かるかな、死んでいるものとは、つまり、お前だよ」。
 青年は、なにを失礼なことを言うんだ、と怒りながらも、その言葉に真実を見たのでしょう。それから寺の法座に通い出したということです。
 また、かつて安田理深という念仏者はこう喝破しました。
「聞とは好きなことを聞くということではない。仏教など好きで聞けるものではない。好きで聞くというなら、変態者であろう。迷ったものが、真理に触れるのである。聞くのは怖れである。自分を否定するのであるから、怖いのは当然である。けれども聞けば聞くほど、自我が否定されていくのである。実際、聞法は格闘である」(『願生偈聴記』)
 自身が凡夫である、というところに落ち着けたとしたらかなり嘘がありそうです。自らの凡夫性を怖れながら、それを指摘する声に怒りながら、しかしその同じ声に安んずる。仏法に生きるとはそのような営みだと言っていいかもしれません。

※本稿は下記を参考にさせていただきました。
 『芳立五蘊』 「相田みつをの言葉と出遇った時のこと」
 『聞法100話』亀井 鑛著(法蔵館刊)

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