いつも、いっしょに(2007.3)


実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。(教行信証)
 今年の一月一七日、タレントの風見しんごさんの娘さん、小学校五年生のえみるさんがトラックにはねられて亡くなるという事故がありました。登校途中、自宅から一五〇メートルのところでの出来事。すぐに病院に運ばれたものの取り返しはつかなかったのです。
 通夜が営まれたのが一九日。押しかけた芸能レポーターの前に気丈にも風見さんは立ちました。斎壇には、えみるさんの笑顔の写真が何枚も引き伸ばされて飾られています。
 その内の一枚は、昨年の二月の、えみるさんの誕生パーティーの写真でした。それを見たレポーターが風見さんに、「最後の誕生日になってしまいましたね」とマイクを向けました。それに対して風見さんはこう応えたのです。「いえ、最後じゃないです。来月の誕生日もお祝いをしますよ。だって僕たちはいつもいっしょなんだから」
 今、娘は柩の中で横たわっている。でも、娘と僕たちはいつもいっしょなんだ。それは風見さんの、おなかの底からの実感だったに違いありません。

いのちは響き

 一般の理解では、いのちは身体に宿るものであり、身体が営みを止めることが即ちいのちの終りと考えられています。しかし仏教のいのち観はそうではありません。身体がその営みを止め、形を失ってしまっても、同時にいのちが消えてしまうとは考えていないのです。と言うと霊とか魂とかオーラとかを連想されるでしょうが、そういうものでもありません。
 仏教ではいのちを「縁起」において考えます。「縁起」とは現代語に直訳すると「関係性」あたりが近いのでしょうが、私はこれを「響き合い」、そして「ぬくもり」と意訳をします。人と人とが相対したときに生じる「響き合い」「ぬくもり」。その全体がいのちだと仏教では考えているのです。いのちは、個の中に独立しているものではありません。人と人とが関係するところに生まれるもの全部をその人のいのちと見ます。もし相対した片方が亡くなったとしても、そこで生じていた「響き」「ぬくもり」も同時に消えてしまうことはありえません。いや、その後も響き続け、ひろがり続けるのがいのちのはたらきです。
 仏教的いのち観からは、いのちは肉体を失って後も周りに影響を与えます。周りを導くことすらあります。そういう在り方を私たちは「仏」と呼んでいるのです。

亡き人に導かれ

 娘さんの通夜の席で、加害者に対して言いたいことは、とマイクを向けられた風見さんはこう答えています。
「それは・・親ですから・・ありますけど。うしろに、えみるがいますから。えみるはケンカとか嫌いな子だったから、言いません」
 人を恨んだり争ったりすることが嫌いだった娘のことを考えると、そんな言葉は口にできない、と。
 この言葉を風見さんに言わせたのは、言うまでもなくえみるさんです。あえて言えば、仏さまとなったえみるさんです。
 もちろん風見さんは「口にしない」と言っただけであって、内心では別かもしれません。ご自身のブログでも、四九日法要の後で「しかし不思議なもので、時間が経つほど、えみるの事故が現実として受け入れられません。今まで経験した事のない、えぐり獲られるようなこの胸の感覚は一体何なのでしょうか?妻は吐くほどの悲しみにも頑張っています」と吐露していらっしゃいます。しかしその風見さんを今支えているのもえみるさんであることも同じブログに書いていらっしゃいます。
「みんなで・・、みんなで・・、我が家は負けません!なぜなら、えみるが一番頑張っていると感じるからです。僕らすべてを見守るために、小さな体でがんばってると感じるからです」
 えみるさんの通夜葬式は、浄土真宗の作法で営まれました。えみるさんの法名は「釋慈笑」。「えみる」という俗名はいつも「笑み」であるようにとの願いから付けられたと伺いました。そしてその「笑」は慈しみの心となって風見さんを包んでいらっしゃいます。

如より来る

 親鸞聖人は教行信証において「しかれば、弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。」とお示しになりました。「如」とは真実、「報・応・化、種種の身」とは、様々な姿かたちということです。阿弥陀様はそのお心を私に届けるために様々な姿をとられます。それはある時は、親、あるいは子どもの姿を借りているかもしれません。
 私たちが仏さまに手を合わせるのは,今ここに届けられている「いつもいっしょだよ、あなたはひとりじゃないよ」との呼びかけを受け止める作法に他ならないのです。

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