支配する者の落とし穴(2006.10)


慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。                       (教行信証)
 インターネットの光通信環境の整備が進み、映画もネットで配信されるようになりました。テレビもビデオデッキもDVDプレーヤーさえいらず、ノートパソコンだけでどこでも映画を観られる時代の到来です。
 ただそれが、映画の裾野を広げるかというと必ずしもそうではないと私には思えます。気軽さと便利さを得ることで失うものもあるはずです。

  王様の意向に引きずられ

 その第一はおそらく、感動。さらには、作品自体も失う可能性もあります。
 例として、テレビのリモコンを挙げましょう。もう十分に長いテレビの歴史の中で、リモコンは決定的な影響力があったと思います。座りながらにしてテレビのチャンネルを変えられるリモコンの普及によって、テレビ番組の作り方は変わりました。
 手軽にチャンネルを変える視聴者の関心を引き止めることを第一とするために、例えばドラマでは、一見停滞しているような進行は排除されます。それにより、かつて山田太一や倉本聰や向田邦子が採用した、本筋とは関わりないが登場人物の心象をじっくりと表現するようなシーンが盛り込まれることは皆無となりました。ニュース番組では、明解化という名目の単純化が進みました。
 同じ傾向が遅れて映画にも見られるようになります。
 映画マニアでない一般の人たちは今、映画館に足を運ぶことはまれです。多くはDVD。しかもそれを頭から終りまで観ることはまずせず、リモコンを片手に退屈なところは早送りをするのが普通のようです。
 観客=王様がそういう態度なら、供給側はそれに対応をします。かくして、早送りされない作品作りが奨励されます。ヤマ場と見せ場を多くし、ストーリーも分かりやすくと。そのような、面白くはあるが余韻を残さない作品が多く世に出される元には、個人のリモコンがある、というのは言い過ぎとは思えません。

  被支配者の逆襲

 映画館での上映であれば、とりあえず、上映時間内は観客は椅子に座っているしかありません。途中に退屈な場面があったとしても観客は逃げるわけにはいかず、せいぜいの抵抗が目を閉じるくらいのものです。そのように自分の自由にならない時間を過ごすことは、リモコンに慣れた者には、苦痛苦行にさえなるでしょう。
 映画だけでなく今や、サッカーや野球などのスポーツの試合さえ、わざわざ録画して視るという人も増えています。試合の時間帯が都合が悪いから録画して後で視るというより、録画をしたものを、早送りをしながらポイントだけを集中して視る。それが時間の節約だというのでしょう。
 おおげさでなく、時間を支配しようとする欲望の象徴がリモコンと言えるかもしれません。しかし残念ながら、人間は、自らの支配下にあるものからは感動を得ることはできません。
 映画を見終わったとき、途中の退屈な場面こそが映画に深みを加えていたんだと分かることは少なくありません。スポーツ観戦にしても、長い膠着状況や凡戦状態を経た後の一瞬だからこそ、震える感激が訪れるのでしょう。
 退屈を忌避したい、時間を支配したいという欲望がもたらす歪みは外界に波及します。それは映画で言えば、地味であっても深みがある作品が制作されなくなるという形に現れ、それゆえに訪れる真の退屈を埋めるものは存在しません。
 苦労の末にこそ得られる喜びは、一面では登山に喩えられるかもしれません。ただ決定的に違うのは、登山の本当の楽しみに気づくまで山はそこで待っていてくれますが、映画の時間を支配しようとするものは、映画自体を失ってしまうということです。そしてそれは映画以外の多くのものにも共通して言えること。

  感動とは驚き

 親鸞聖人は、法然上人との出会い、そして阿弥陀如来の救いとの出会いを「遇う」と表現されています。「遇う」とは、ただ二者が顔を合わせる、という意味ではありません。会うことを予想もしていなかったものと会う、会える筈のなかったものと会う、という場合に使う語です。そこには驚きがあり、だからこそ、感動があります。
 私たちはどんなに貴重なものを手に入れても、それが想定内のことである限り、感動を覚えることはありません。私たちが感動するとは、私の思いを超えた体験をすることであり、私の思いを壊された体験をすることに他なりません。
 自分を超えるもの、自分を壊すものと遇うことは、往々にして不安であり時には恐怖を伴い、自分の意に添わないものです。私たちが退屈な場面を切り捨てるのも、退屈は不快だからです。しかし、不快、不安、不便。それら自分の意に添わぬものが、実は自分に大きなものを与えることがあるのだということは頭に置いておいた方がよさそうです。
 どうぞこの秋、ひとつでも豊かな出遇いがありますように。

法話のようなものINDEX

HOME