「被害者意識」にひきづられ(2006.8)
尊貴自大にしておのれに道ありと謂ひ、横に威勢を行じて人を侵易し、みづから知ることあたはず。悪をなして恥づることなし。みづから強健なるをもつて、人の敬難せんことを欲へり (無量寿経)
遠いアフリカの話
滞在していた外国報道陣が住民同士の虐殺現場をビデオに収めました。ああ、この映像が世界に流れれば誰かが救助に来てくれる、そう希望を持つ主人公に、取材者は首をふるのです。「いや・・・世界の人びとは夕方のニュースに流れたこの映像を見て、『怖いね』と言うだけでディナーを続けるんだ」
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映画『ホテル・ルワンダ』の一場面です。国際映画祭で賞を取り、アカデミー賞にもノミネートされたにもかかわらずこの作品は、当初、日本での上映予定はありませんでした。遠いアフリカの話だからでしょうか。それが、外国での映画の評判を聞いた若者たちから上映嘆願の署名運動が起こり、今年一月の上映に至ったのです。それも最初は渋谷の小さな映画館一館だけでしたが、連日溢れるほどの満員。次第に上映館は増えていき、何ヶ月ものロングランとなりました。この8月にはDVDも発売になります。
隣人が殺しあった
映画は、一九九四年に起こった、百日間で百万人が殺された大虐殺事件が舞台です。
ルワンダでは、それ以前から多数派のフツ族と少数派のツチ族の間で幾度となく争いがありました。それがこの年の四月、ルワンダ大統領の暗殺をきっかけに、軍部によって煽られた一般のフツ族たちがツチ族を虐殺し始めたのです。昨日までの隣人同士、親戚同士が。
映画の主人公ポールは外資系のホテルの支配人です。彼はフツ族ですが、妻はツチ族。妻や逃げ込んできたツチ族の隣人たちを、ポールはホテルマンとしてのあらゆる手練手管を駆使して守り抜こうとします。裏切り者呼ばわりされ、フツ族の標的ともなってしまいながらも彼がかくまったツチ族の人びとは千二百人にまで膨らんでいきました。
事実に基づき、「アフリカの『シンドラーのリスト』」とも称されるこの映画では、ツチ族をゴキブリと呼び、隣人を叩き潰すフツ族の憎悪の因は説明されません。ただ両者に人種的な違いは何もないことが説明されるだけです。あえて事件の政治的な経緯を省略したのは、監督のテリー・ジョージが、出身の北アイルランドで、カソリックとプロテスタントの抗争の最中に青春時代を過ごしたこととも関係がありそうです。彼はこの映画を撮った動機についてこう語っています。「私は派閥の対立について特に経験がある。その対立がどのように操られるのかも身をもって知った。『異者』への脅威が普通の人々に恐怖を注入するんだ」
「異者」と名付けたときから
この映画のパンフレットに映画評論家の町山智浩氏が解説文を寄せています。町山氏はその最後をこう締めました。「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」
一九二三年九月の震災の直後、朝鮮人が放火・投毒・来襲するという流言がたちまち広がり、住民の自警団などにより数千人にものぼる朝鮮人が殺された事件への言及に対して、インターネット上にいくつもの反発が噴出しました。なんでここで朝鮮人虐殺の話なんか持ち出すんだ、ルワンダと大震災時の日本は全然違う、映画にかこつけて政治信条を語るな、反日活動だ、日本が嫌なら出て行け、朝鮮へ帰れ・・・
町山氏は韓国出身の父を持ちます。しかし本人は日本で生まれ育ち国籍も日本。その人が過去の日本に起きた事象に言及しただけで「反日分子」「朝鮮へ帰れ」。まさに監督が意図した、異者の認定による自他の分断と排除が、その映画を観た人たちによって再現されているのは皮肉というより、このテーマの普遍性の表れと見た方がいいでしょう。
「尊貴自大にしておのれに道ありと謂ひ、横に威勢を行じて人を侵易し、みづから知ることあたはず。悪をなして恥づることなし。みづから強健なるをもつて、人の敬難せんことを欲へり」(註釈版聖典P67)と無量寿経にあります。
町山氏の記述を批難する人びとの多くは、『ホテル・ルワンダ』には感動を寄せています。つまり町山氏への怒りは、「せっかくの感動に水を差された」という被害者意識からくるものとも見えます。
レベルはもちろん違いますが、ルワンダも、そして監督の出身の北アイルランドの抗争も、惨状を拡大している第一の因は被害者意識にあるように思えてなりません。自らの「尊貴」と「道」に正当性を付与する「被害者意識」から私たちはいかにして抜け出すことができるか、持続して考えていきたい課題です。
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