花粉症にかかってしまった社会で(2006.3)


具縛はよろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は身をわづらわす、悩はこころをなやますといふ。(唯信抄文意)
花粉に罪は無い

 この冬の厳しい寒さには参りました。三月に入り、日差しには暖かさが増してきましたが、そうなると別の憂鬱さを感じる方は多いでしょう。
 花粉症。この病気が春の風物詩になって何年になるでしょうか。顔半分を完全に覆ってしまうマスクも、登場時は異様に思えたものの現在は完全に街中に定着しました。それだけ症状に悩む人が多いということでしょう。一説では、花粉症にかかっているのは全日本人の二十%にもなると言われます。
 花粉症に代表されるアレルギーは、自己防衛反応です。広辞苑によれば「広義には免疫すなわち抗原の害作用への抵抗の増大も含まれるが、狭義には反応の変化の結果傷害的な過敏症状を呈するもの」、すなわち、体に入りこんだ何者かを異物として排除しようとする作用が働き過ぎて、逆に我が身を傷つけてしまう状態と言えるでしょう。
 花粉症は、花粉自体に毒があるわけではありません。花粉が悪者ではないのです。それは、他の食物アレルギーを思えばより容易にうなずけるでしょう。そば、卵、大豆。今、非常に多様な食材にアレルギーを持つ方が増えていますが、そばや卵や大豆が毒なわけではなく、それらを敵と判断する我が身があるのです。
 他者を敵と認定して、敵からの防衛力を強めることで逆に我が身が苦しめられ、時には命さえ脅かされる姿はある種、現代の象徴にも見えます。

何を守る?

 自らを守ろうとすることで逆に自らを危険に陥らせるという例は他にもあります。
 平成十七年四月一日より、個人情報保護法が全面施行され、事業者は個人情報の適正な取扱いが求められることとなりました。以降、「個人情報保護」の名目で、個人の住所や電話番号が秘匿されるケースが多くなりました。どうもそれが今、あまりにも過剰に適用されているケースが多く、問題になっています。
 たしかに、毎日届くDMや営業電話の煩わしさは、個人情報が流れることの弊害といえるでしょう。しかし、名前や住所や電話番号、所属を隠すことで逆に、安全を保てなくなるケースも少なくないと思います。
 うちの子どもたちが通う小学校のクラス連絡網一覧表には住所の欄がありません。保護者の名前もありません。電話番号が記されているだけです。知人の子どもが通う学校では連絡網一覧表さえもなくなったと聞きました。自分のクラスメイトがどこに住んでいるのかも知らされなくなっている状態。子どもが下校時に自宅とは反対方向に歩いていっても不審に思うことがない、不審に思っても保護者への連絡方法がないという状態。個人情報を過度に伏せることによって守ろうとしているものは何なのでしょう。少なくとも子どもの安全ではないことだけは確かです。

具縛の凡愚

 安全は、適正な情報の公開によってこそ保たれるものです。私を無防備にさらすことが危険を招きかねないことは言うまでもありませんが、私がここにいる、との表明があってはじめて、その存在は認められ守られるものです。そして、あの人があそこにいる、という情報は社会を安定させます。それは一見、窮屈な監視社会を連想させますが逆です。監視社会は人びとの他者への疑心暗鬼と無関心が築くのですから。
 疑心暗鬼は関係を断ち切った末の果実とも言えましょう。一方、他者への関心は必然的に関係を紡ぐ可能性を開きます。安全を築く上で「関係」は重要なキーワードになるはずです。
 また、安全は、過剰な防衛ではなく、情報の適切な取捨に基づいた冷静な判断によってこそ保たれるものです。
 花粉症がこれだけ蔓延した原因のひとつとして、私たちの生活から雑菌が少なくなったから、という説があります。社会の清潔度があがったことにより、私たちの体の免疫細胞が仕事がなくなってしまった。でも遊んではいられない。そこで目をつけたのが花粉だったと。自らの使命に燃えた勤勉な免疫細胞によって悪に仕立て上げられた無害(あるいは軽微な害)の者たち。そこで繰り広げられる戦闘模様。正義を掲げた「善意」の者が広げていく悲苦の世界。なにやら今の社会と大きく重なります。
 我が身を守ろうとがんじがらめになっている姿。自らの善意が災禍を広げていることに気づかない姿。親鸞聖人が私たちを「具縛の凡愚」「具縛はよろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は身をわづらわす、悩はこころをなやますといふ」(『唯信抄文意』)とお示しになったことを思い出します。

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