「事実」が生まれる時(2005.6)


弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
(正信念仏偈)

 この春、背筋を伸ばしてすっと直立するレッサーパンダが人気を集めました。千葉市動物公園の風太くんが立ちあがるようになったのは今年一月からだそうですが、なで肩のその立ち姿はどこか自慢げでしかしとぼけてもいて確かに愛くるしく、人気者になるのも分かるというものです。
 ところが風太くんが話題になるにつれ、全国の動物園から、うちのレッサーパンダも立つよ、という報告が続出しました。広島、石川、静岡、秋田、釧路、高知。一時、朝のワイドショーは、今日は○○動物園からです、と新たに名乗りをあげた各地の勇者たちの紹介を毎日日替わりでレポートしたものです。
 これはどういうことでしょう。全国のレッサーパンダが突然二本足に進化を始めたのでしょうか。もちろんそういうことではありません。「立つレッサーパンダは可愛い」という認識が広まっただけなのです。それにより、立つレッサーパンダが続々「発見」されました。立ち姿に歓声をあげる客たちの多くは、この騒ぎの前には同じ檻をただ素通りしてきたに違いありません。

名付けられて「事実」になる

 同様なケースに、ガードレールから突き出した金属片騒動があります。五月末、埼玉県で通学途中の少年が、鋭利な刃物のような三角形の金属片に触れて大怪我をしたことが報じられました。するとその後わずか数日のうちに、全国で同様の金属片が三万箇所以上「発見」されました。同時多発テロか?いえいえ、確かに故意のものもあったようですが大半は接触事故で剥離した車体の一部でした。何年も前からそこにあり、目にもされていたものなのに、それらは今まで問題になることはおろか、存在を認識されることがなかったのです。「凶器」と名付けられるまでは。
 あらゆるものは名付けられることではじめてその存在を「発見」され認識されます。それ以前に誰もが目にしてきたものであっても。
 名付けられることによって認識された「事実」は、その瞬間から屹立し、存在を主張します。力を持ちます。逆に言えば、日々の中で、とても多くのものを目撃しているにもかかわらず認識していない私たちは、それらの存在の無化に加担しているということでしょうか。
 いえ、無化への加担だけにとどまりません。あるものを無いと見過ごす私たちは、無いものをあると勝手に仕立て上げ、勝手に怖れる私たちでもあります。
 金属片騒動の当初、「犯人」についてさまざまな憶測がなされました。その中の一つにこんなものがありました。「インターネットに躍らされた若者の仕業だ。金属片の手口がネットで一瞬のうちに流布されて、模倣犯を大量に生んだのだ」。それはあの時点では確かにひとつの可能性としてはありえたでしょう。しかしそこには単なるひとつの可能性というだけでない、若者たちへの悪感情までもが託されていました。事実を見る時に感情を加味してしまうと、事実は感情に引きずられてしまい、その姿さえ変えてしまいます。かくして、ありもしない凶悪犯への悪感情が再生産され増幅されたりもします。同様なケースがイラクや北朝鮮を見る時にも当てはまるように思えるのですがいかがでしょう。

見えていないという痛み

 事実を見る。事実をそのまま丁寧に見る。仏教ではそのことを「正見」として大変重要視しています。そして親鸞聖人は、それが出来ない私なんだ、と常に痛みをもっていらっしゃった方です。
 親鸞聖人はご自分のありようを「邪見」と「驕慢」にまみれた「悪」の「衆生」そのものである、とご覧になりました。ものを正しく見ていない、にもかかわらず自分は常に間違いないと驕り慢心するのは他の誰でもありません。この私でした。
 念仏はそんな悪人を「救い」に導きます。ただしその「救い」は安直な慰めではなく、痛みの自覚そのものです。見過ごしたり偏見を持つことに開き直るのではなく、いつもそうしかねない私であることを痛感する。それがまさに、物事をありのままを見ることにつながります。痛感し続けられる私であることが何よりも「救い」の具体相なのです。
 折しもこの七月初めに、神戸で国際エイズ会議が開かれました。また、同月、貧困問題をテーマとした音楽イベント「ライブ8」が全世界で同時開催され、日本では「ほっとけない世界の貧しさキャンペーン」として、中田英寿他が参加しています。
  それらに教えられるまでもなく、私たちの目前には、まだ名前を知られていない呻き声が多くあります。そこで私たちが出来ることは彼らに名前を付けることでしょうか。いや、その前にすべきは呻き声を聞き取り、聞き続けることかもしれません。聞き手を得た彼らはやがて自らの悲を、苦を、そして自らの名前を語り始めることでしょう。

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