誤解の幅(2005.3)


一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよくきき、心中のとほりを同行にあひ談合すべきことなり(蓮如上人御一代記聞書)

 三月。
 進学で、就職で、見えない明日に心揺れる若者たちの姿に、かつての自分の同じ季節が重なります。
 私の高校三年のときの進路相談。担任のH先生とのそれは、相談というよりまるで雑談でした。思いがけず(?)充分に楽しかった高校生活を振り返りながら、大学はどうするんだ、と問う先生に私は、とりあえず一浪して東京のどこかの大学の法学部に行こうと思う、いずれ寺を継ぐにしても他に専門を持っていた方が何かと役立つだろうし、と答えました。それも分かるけどなあ、いきなり坊さんになるのもいいんじゃないか、とH先生。いやあ自分が坊さんになるなんて全然想像できないですよと笑う私に、H先生は一人語りのようにこんな話をしました。
「教師をやってると、生徒って本当に不思議で面白いと思うよ。こちらが懸命に伝えようとしていることは右から左に聞き流すくせに、ほんの些細な一言をしっかり受けとめて、僕のとても届かない深みまで思考を及ばせる。だからね、最近は教えなくちゃって肩肘張ることはなくなったな。生徒は僕の思惑を超えて勝手に学んでくれるんだって分かったからね」
 ちょっと頼りなく無責任にも思えるこの言葉は、私のどこかの窓を開けてくれたようでした。結局私は京都で仏教を学ぶこととします。卒業後すぐに私が僧侶の職に就いた時にも、この言葉は甦って、背中を押してくれたような気がしています。
 新しい環境に身を投じる時、旺盛な自意識ゆえに増幅していく不安ですくんでいる足をほどく鍵は、目前の他者への(根拠のない)信託と尊重にあるんだとあの言葉は教えてくれたのでしょう。

  「余地」がある、という豊穰

 そんなことを思い出したのは、神戸女学院大学教授の内田樹氏の近刊『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)を読んだからでした。内田氏は「人が何かを学ぶ/教えるとは、有用な知識や技能をそのまま受け渡す事ではない。それは師弟関係に限らず、私たちがコミュニケーションを先に進めることができるのは、正確な情報の伝達からではなく、『誤解の幅』とそこから開かれる『訂正の道』による」と喝破しています。
 「誤解の幅」というのは、「分からないという余地」と言ってもいいでしょう。私たちは物事を「分かった」と思った途端にそのものから関心を無くし、コミュニケーションを閉ざします。一所懸命話をしている相手に「もう分かったよ」と言われると傷つくのは、それが「興味がない」と同義だからでしょう。
 分からないという余地、誤解という余地こそが、私たちが関係しあえる場所だということです。その余地で育てられるものは単なる硬直した情報ではありません。「私たちに深い達成感をもたらす対話というのは、『言いたいこと』『聴きたいこと』が先にあって、それが行き来したというものではなく、言葉が行き交った後にはじめて『言いたかったこと』『聴きたかったこと』を二人が知った、そういう経験」という内田氏の指摘には、反省とともに深く納得してしまいます。

 「意巧」を自覚した上で

 蓮如上人がお同行(お仲間)に常々話をされていたことをまとめた語録には次のような文言があります。
「一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよくきき、心中のとほりを同行にあひ談合すべきことなり」
「四五人の衆寄合ひ談合せよ、かならず五人は五人ながら意巧にきくものなるあひだ、よくよく談合すべき」
 「得手」とは「得意」「上手」、「意巧」は「意味を巧みに」「自分の思う通りに」という意味です。「談合」とは話し合うこと。つまり、「同じことを聞いていても、五人いれば五人ともが、それぞれ自分の受け取りたいように勝手に聞いているものだ。だから人が集まった時はよく話し合いをして、それぞれが受け取ったところをよく確かめなさいよ」とおっしゃったものです。
 これは通常は、教えが誤って伝わることを懸念された言葉とされています。もちろんそれはそうなのでしょうが、それだけでは少々お諭しを狭いものにしてしまっているのではないかと思うようになりました。
 「得手」も「意巧」も言葉自体には悪い意味はありません。それぞれがそれぞれなりに受け取ってしまうのは良い悪いではなく、単にそういうものだということです。ただ、それを放っておくのは危ういと同時に勿体ない、とお考えになったのではないでしょうか。
 「分かった」ことで自分を小さくまとめてしまったり、他との関係を閉ざしてしまったりするのではなく、「分からない」という豊かさのもとに自分を開き、話し合いによって人間の内も外もが拡がっていく。蓮如上人が目されたのはその可能性だったように今は思えます。
 

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