広島のある日本のあるこの世界を愛するすべての人へ(2004.12)


世間虚仮 唯仏是真

 あと数時間で終る今年を代表する字は「災」。(日本漢字能力検定協会のアンケート結果)
 まさに。天災は国内はもとより、たった今伝えられているスマトラ沖地震など被害の全貌が計り知れません。その報道や、人災そのものの紛争のニュースに触れながら、被害者に心を寄せます。
  ただ、それがどれだけ本当に被害者の心にそっているかはあやしいものです。特に人災において、被害者当人の怒りよりも支援者のそれが勝ることは往々にしてありがちです。支援者は「被害感情」に酔うことができますが、被害の当事者にしてみれば、その痛みは加害者への怒りなどで相殺されるものでは到底ないということなのでしょう。そして痛みはしばしば被害者自身への罪悪感へもつながりさえします。あの原爆の被災者がまさにそうでした。そんなことも私は知らなかった。
 『夕凪の町 桜の国』こうの史代著(双葉社)。百ページ足らずの連作マンガです。ほのぼのと暖かい絵柄で描かれたテーマは「ヒロシマ」。同じく原爆を取り上げたマンガ『はだしのゲン』が、原爆を生み使用した人間への呪詛とそれでも立ち上がる人間の強さを眼前に突きつけたのに対して、『夕凪の町 桜の国』には凄惨な描写や鋭利な叫びはまったくありません。しかし、投下の一瞬が奪い去ったものの大きさが染み入るように伝わり、言葉をなくします。
 第一話『夕凪の街』の舞台は原爆投下から十年経った広島。小さな会社に勤める皆実(みなみ)は、同僚の打越に恋心を抱きながらも、自分の幸を自分で封印してしまいます。あの八月六日を経たことが、自分の生への否定、あるいは罪悪感にも似た感情を拭えなくなっていたのです。そしてその感情は、一見、明るく強く過ごす街の人々がみな共有しているものだと皆実は感じています。

ぜんたい、この街の人は不自然だ。誰もあの事を言わない。いまだにわけがわからないのだ。わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ。思われたのに生き延びているということ。そしていちばん怖いのは、あれ以来、本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに、自分で時々気づいてしまうことだ。

 死ねばいいと誰かに思われた、といういのちの喪失感。それとともにあの日の、生き延びるためのあがきが十年経ってなお、皆実の胸に重く残るのです。

八月六日、何人見殺しにしたかわからない。
塀の下の級友に今助けを呼んでくると言ってそれきり戻れなかった。
(略)
死体を平気でまたいで歩くようになっていた。時々踏んづけて灼けた皮膚がむけて滑った。地面が熱かった靴底が溶けてへばりついた。わたしは、腐ってないおばさんを冷静に選んで、下駄を盗んで履く人間になっていた。
(略)
川にぎっしり浮いた死体に霞姉ちゃんと瓦礫を投げつけた。なんどもなんども投げつけた。
あれから十年。しあわせだと思うたび、美しいと思うたび、愛しかった都市のすべてを、人のすべてを思い出し、すべて失った日に引き戻される。おまえの住む世界はここではないと、誰かの声がする。 

 理不尽きわまりない悲惨を強いられた者が、その責を自分に向けてしまうことがあるそうです。妻子を惨殺された経験から全国犯罪被害者の会の幹事を務める本村洋氏は事件後何年も、日常でふと笑ってしまったり、美味しいものを食べたりする度に妻子に申し訳ないとの気持ちが湧いてきたと語っています。自分の存在理由さえ疑わせるという被害者の苦を癒すのは、加害者への憎しみなどというものとは別次元のところに拓かれるようです。。
 やがて皆実は打越からの求愛に、閉じていた心を開きます。

・・・教えて下さい。うちはこの世におってもええんじゃと教えて下さい。十年前にあったことを話させて下さい。そうしたら、打越さんに逢うた事とかを、姉や妹やみんなにすまんと思わんですむかもしれん。

 打越が皆実の気持ちを汲み、「生きとってくれてありがとうな」と手を握った翌日、皆実は原爆症に倒れてしまうのでした。

嬉しい?十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?

 『夕凪の街』に続く『桜の国(一)(二)』は、それから三十年後、そして五十年後の物語。主人公は皆実の姪、七波です。東京で快活に学校に通う七波の日常が描かれながら、彼女の人生の底にもヒロシマの影が深くさしていることが次第に明かされます。
 両親や祖母を通したヒロシマは七波にとって避けていたい場所でした。それが年老いた父とともに広島を訪れる中で、自分が何から避けていたのかが見えてきた七波でした。その姿は広島出身の作家こうの氏に、そして、たいした想像もせずに戦争を分かったつもりでいる私にも重なります。
 『夕凪の街 桜の国』は被爆者の苦と悲を体温とともに伝えてくれるとともに、苦や悲にまみれたこの生の中に、煌めくような一瞬が無数にあること。「いなくていい」との一方的な裁断に忍従していいいのちなどないことを示してくれています。

こんな風景をわたしは知っていた。生まれる前、そう、あの時わたしはふたりを見ていた。そして確かに、このふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ。

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