他者の気持ちになるということ (2004.9)


善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。(歎異抄)
 池田小事件の犯人、宅間守に死刑が執行されました。
 八人を刺殺し、児童十三人と教師二人に重軽傷を負わせた宅間守には、現行の法に従う限り死刑以外の刑は考えられません。しかし、それにざわりとした異物感が残ってしまうのは、宅間が自ら死刑を望んでいたという事実があるからです。
 この死刑はただ彼の自死を手助けしたにすぎません。そして同時にそれは、宅間が強固に抱いていた偏狭で無惨な世界観という土俵にこちらが乗ってしまったことにならないでしょうか。彼による世界の矮小化・虚無化の作業を幇助したことにならないでしょうか。
 それでも良いと言う人はいるでしょう。遺族の感情を思えば、と。
 ここで問いたいのは死刑制度ではありません。それを支えると言われる「遺族感情」です。
 死刑執行に、あるいは死刑制度に異を唱える人々へたびたび「遺族の気持ちになれ」という罵声が向けられます。しかし、「遺族の気持ちになる」とはどういうことなのでしょうか。私たちはそれをあまりに容易く出来ると考えてはいないでしょうか。

 「被害者」とくくらないで

 『弟を殺した彼と、僕』原田正治著(ポプラ社)は、弟を保険金搾取のために殺害された著者が、憎悪を抱えながら加害者との連絡を続け、死刑廃止運動に関わるにいたった葛藤を記した記録です。
 著者原田氏は加害者を君づけで呼びます。すると質問されるのが「なぜ君づけで呼ぶのか」。原田氏は質問を返します。「では、あなたはどうして呼び捨てにするのですか」「あなたは、僕が彼を憎んだほどに、人を憎んだ経験がありますか」「あなたは、僕以上に、彼を憎んでいるのですか」
 原田氏は死刑制度の前に立ち止まることの意義を自分の経験を元に語ります。というとつい寛大な慈悲深い人、と思われるかもしれませんが、それも私たちの想像力の貧困ゆえです。犯罪被害者はみな加害者への憎しみに溢れている、例外的に高徳な人もいる、という思い込み自体が、犯罪被害者に苦痛を加えていることを知らなければなりません。被害者に典型などないのです。
 原田氏はこう記します。「僕から見れば『被害者のことを考えているのか』と抗議する人もまた、僕のことなど一度も考えてくれたことなどない」「そのような人は、僕のような者を『家族を殺された彼らは、平穏に暮らす自分より気の毒でかわいそうな人』と、一段下に見ていると感じます。その上、自分のことを偽善者よろしく、『言われなくても被害者遺族の気持ちを推し量ることができる自分は、人間らしい情のある者だ』と、心のどこかで考えている気がします。被害者のことなど真剣に考えてはいないのです。」

 底しれぬ憎しみ。それと同時に

 加害者と向いあおうとする原田氏の思いは表現できないほどの憎しみでした。それでも加害者と関わりを始めたのは赦しと呼ぶにはあまりに遠いものです。死刑を問う運動へ複雑な心のままに加わるようになった著者の彷徨は、単なる綺麗事の人道主義や恩寵主義ではない、自身の生の引き受け方への問いそのものでした。
 死刑執行後、加害者の遺体を前にしたときの原田氏にはこんな感慨がありました。「誰が僕のような憎しみを味わったでしょうか。その憎い男が今、安らかに横たわっているのです。この底知れぬ大きさの憎しみを抱いた男と会いたいと思ったこともまた事実であり、この男と会うことが自分の心を解放する一歩になるように感じたことも真実でした。『死んでも忘れてはいかん。死んでも赦してはいかん』と思いつつも、彼の死を悼む気持ちも自然に出てきたのです。言葉でどう説明しきれるのかわからない思いが僕の内面に溢れかえっていました」
 ここだけ抜き書きすることで原田氏の物語を単に美しく印象づけられることを私は危惧します。ぜひ、本書全編をお読みいただき、原田氏の呻吟に同行頂くことを願います。
 私たちはなぜ、犯罪被害者の気持ちが分かるつもりでいたんでしょう。分かるという傲慢は分からないという冷徹と同類です。すべきは、分かった気になって同情するのでもなく、分からないものと放棄するのでもなく。耳を傾け続けることしかないのだと思います。「犯罪被害者」とのレッテルを外した一人の人の声を。そして出来うれば、「加害者」とのレッテルを外した一人の人の声も。

 無様な善人よ

 極悪犯罪がおきるたびに真宗僧侶の私はこう聞かれます。「こんな悪人でも救われるのですか?」言うまでもなく歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を念頭においてのものです。池田小事件の宅間についても、そしてオウムの麻原についても発せられたこの問い。まず押さえていただきたいのは、歎異抄の言葉は「あの人はどうこう」と他者の善悪や往生の可否を判断するものではありません。あくまでも私一人の上に向けられたものです。そう知った時にこの言葉は、茶の間で横になりながら軽々に被害者の気持ちが分かった気になってはすぐ無関心になってしまう善人そのものの私を鋭く突き刺します。
 では往生とは?救いとは?その第一は、自らの無様さを直視できる私に育てられることでしょう。■

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