大事(だいじ)ではなく大事(おおごと) (2004.6)
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。(歎異抄)
世間の事件の消費スピードについていけません。あのイラク人質事件なんてずいぶん昔のように感じますがあれからまだ三ヶ月も経っていません。同じイラクでのジャーナリスト殺害も、北朝鮮の拉致家族帰国も、年金問題も、窪塚洋介転落(これはまあいいか)も。一時期わっと盛り上がってすぐに関心外へ。熱しやすく冷めやすいのが日本人の特質とは言われてはいますがそれにしてもなあ。今回話題にする事件も例にもれずもう世間の関心が向かなくなってしまいましたが、私はひとつだけ気にし続けたい点があるのです。
佐世保で小学六年生が同級生を学校で殺害する事件が起こりました。またも、とつい口に出てしまいます。そして、少年犯罪が起きるたびに繰り返される、「子どもに『いのち』の尊さを教えなければ」という声。でも「いのち」の尊さを教えるって?。
いのちをどう教えよう
ひとつの詩を御紹介します。
人間は自分たちの生活が豊かになるために、/木を沢山切ったり、ゴミ、不燃物などを平気に捨てたり…/そんな事をしているらしいが本当に豊かなのだろうか?(略)聞いて欲しい、人間の生活が豊かになるのはいいが/私たち、生き物・自然に迷惑をかけないで、/この地球に住んでいるのは、人間だけではないのだから。(略)虫も 魚も 動物も 木、花も/たった一つだけのかけがえのない、/「命」をもっているのだから……(略)「自然も生きているのだから、息をしているのだから」/木や花も動いたり、話したりはしないけど、/生きているのだよ……。/生きているのだから、全て生きているのだから。
「嘆きの賛美歌」と題されたこの詩、作者は佐世保の加害少女です。彼女がこの詩を自分のホームページに載せたのは今年の二月でした。みんな命があるんだよ、だから傷つけないで、と重ねて訴える言葉からは、命の尊さは十分に分かっている様子がうかがえます。
事件後、全国の学校で「いのち」教育が実施されたことでしょう。私の長男も学校の授業で、事件の感想文を書いています。学級通信に載った子どもたちの作文を読んでみたのですが、どれも拙いながら「いのちのかけがえのなさ」を訴えています。小5にもなればそれはよーく知っていることは確かです。でもそれだけでは十分とは言えないのも確かすぎること。
一般論で語れるいのちなど、ない。
加害少女が書いた、いのちを奪うなと繰り返し訴えた詩。事件とのギャップがあまりに大きいような印象を受けましたが、改めて読み返してみると必ずしもそうではないことが見えてきました。この詩は大きな空洞を抱えています。この詩にはあるべきものがありません。それは等身大の彼女自身です。
この詩で加害少女は「私たち、生き物・自然」と自称します。その目から傍若無人な人間へ命を傷つけるなと訴えています。どうもその時の「人間」に彼女自身は含まれていないようです。他者と同化して、他者の痛みを我が事にしていると見えますが、そこで語られるのは身の痛みではなく被害感情でしかありません。一見想像力を働かせたようでいて、むしろ逆に想像力の狭窄さが見て取れます。それは彼女の幼さの現れであり、幼さゆえに極端な事件に発展してしまったのが今回の事件なのでしょう。そして、その幼さは、今年の春以降顕著になっている世情とあまりに符合しているとも私には思えます。
生身の視点ではなく、高踏的な視点から他を断罪する事象が続いています。イラク人質問題が起こった時の家族への大きなバッシング。拉致被害者家族が帰ってきた時の、感謝がないという批難。自らを「公」や「お上」や「世間様」と一体化させて他へ詫びを要求する尊大な心性と、長崎加害少女の超越的な心性に相通ずるものを見るのは無理があるでしょうか。
私の目はどこにある?
「私」をもっと意識すること。私はそれが「いのち」を考える第一の要件だと思います。
延立寺の本堂に、聴聞(法を聞く)の心得として、こんな言葉を掲示してあります。「(この度の機会は)わが一人のためと思うべし」。それに対して質問をいただいたことがあります。「みんなのため」ではないのですか、自分一人のためと独占してしまうのは自分勝手なこと、いけないことではありませんか、と。はい、「みんなのため」ではないのです。私たちは「みんな」と言ったり言われたりしたときに、必ず自分を除外します。学校の先生が壇上で「みなさん」と呼びかけて、いったい何人の生徒が自分に向けられた言葉と思うでしょう。「みんな」と呼ばれた瞬間に「私」の重さは霧散してしまうようです。私の集まりがみんななのに。
仏教はどこまでも私一人を問題とします。他人事ではないのです。そして私一人をしっかりと問題とすると、私は私一人で完結しているものではないことに首肯かざるをえません。私一人のためと思う事が、私一人で独占しようがない世界を拓くことへつながるのです。いのちもまた同じです。いのちは一人の内側で完結しません。そんな自他のいのちを傷つけることがどれだけの重みを持つか。命は大事(だいじ)なのではなく、大事(おおごと)。実は念仏=南無阿弥陀仏とはその驚きを表白した言葉でした。
正論や正義に一旦身を託した目からは、自他のいのちが妙に軽く見えてしまうのは必然のようです。自分の目の位置をいつも意識していたい。あの加害少女が教えてくれた一点です。■
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