ホントのこと (2004.3)


深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 (教行信証)
 前回で書いたことが分かりにくかったと感想をいただきましたので、今回は補足です。
 現在の築地本願寺輪番の中西智海師は、人間を定義してこうおっしゃいます。「人間は『本当』を求めずにはおれない存在なんだ」と。確かに私たちの毎日は、程度や次元の差はあっても、「本当」を求め続けです。
 そのこと自体はたいへん結構なことと思います。しかし一つ気をつけておきたいことがあります。私たちは何かを求める時は、その何かに足をすくわれがちだということ。
 お金を求めているときはお金に迷います。何年かごとに繰り返されるねずみ講被害など、美味過ぎる話には引っ掛かる方の責任も問われるべきでしょう。
 同様に、ブランドを求めているときはブランドに、学歴を求めているときは学歴に足をすくわれます。そして、「本当」を求めているときは、「本当」に惑わされるもの。

 「本当」はどこにある

 では私たちは「本当」というものを普段はどういうふうにとらえているでしょうか。これには3つ挙げられるように思います。
1、「本当」は少ない、限られたものである。
2、「本当」は隠れたものである。
3、「本当」はすばらしいものである。
 これらが本当に「本当」なのでしょうか。
 まず「1、『本当』は少ない、限られたものである」ですが、こんな例えではいかがでしょう。
 ここに一カラットのダイヤと一カラットのキュービックジルコニアがあります。値段は20倍以上違うもの。さて、これはどちらが「本当」でしょう。答はどちらも「本当」なんです。もしキュービックジルコニアをダイヤだと称したらこれは「嘘」ですが、そうしない限りキュービックジルコニアは「本当」のキュービックジルコニア。数の多少と嘘・本当は何の関係もありません。

 世界は何も隠していない

 次に「2、『本当』は隠れたものである」
 私たちはなぜか隠れているものをそのものの本質と思いがちです。
 ヒモと呼ばれる人がいます。普段粗暴な、だらしない生活を送る彼がなぜ女性を引き止められるかというと、たまに、絶妙なタイミングで優しさを見せるそうなんですね。そうすると女性は「この人は本当は優しい人なんだ」「この人の本当の姿を知っているのは私だけ」でずるずると付きあってしまうというのです。普段隠れているものこそ本当と思いたがる気持ち、分かるような気がします。
 実はこの心情は他ならぬお釈迦さまのお弟子たちにもありました。
 お釈迦さまが八十歳でいよいよ亡くなられようとしたとき、お弟子は、最後に仏教の神髄を伝授してくださいと懇願しました。それに対してお釈迦様がおっしゃったのは「私はいつも包み隠さず伝えてきた。仏教には『教師の握り拳』はないんだよ」。「教師の握り拳」。おそらく当時の宗教界や学問の世界では、神髄は教師が握りしめていて、ごく限られた者だけに伝授するという形が普通だったのでこういう言葉が生まれたのだと想像できます。しかし仏教は常に万人に開かれている、それが「本当」の証なんだというのがお釈迦さまの姿勢でした。
 また七百年前、親鸞聖人の時代。
 親鸞聖人は壮年期を関東茨城でお過ごしになり、晩年は京都へ移られます。聖人が去られた関東の地ではやがてこんなことを触れ回る者が現れます。「一般に伝わった念仏はもうしぼめる花だ。私こそは親鸞聖人から『本当』の念仏の神髄を伝えられた」人々は動揺し、親鸞聖人のもとへ真偽を確かめに言ったところ、聖人の答はこうでした。「私が法然上人から聞いたことはすべて皆に伝えてきた。法然上人のお言葉が嘘でそのために地獄へ行こうともいっこうにかまわない」と。

 『本当』を求める以前に

 さて、では「3,『本当』はすばらしいものである」。これ自体は決して間違いではないでしょう。しかし、「すばらしい」の内実が、「私に都合が良い」「私の思いに適う」であったら話は違います。『本当』は必ずしも私をいい気持ちにはさせてくれず、むしろ不快な、目を背けたくなるような『本当』もあります。これについては前号をご覧下さい。
 真宗教団連合カレンダーの今月の御文が「仏光のもとに われかしこしの慢心が砕かれ 卑屈の心も洗われる」です。仏の光は「慢心」を砕き「卑屈」を洗うものです。思えば私の生活は慢心と卑屈の間の往復運動をしているような気がします。仏光・仏法は、空しい自己評価に忙しい私を、そのままの私に落ち着ける私へと導いてくださいます。ここから確実な一歩を踏み出せる、それが仏教で言う『本当』なのでしょう。
 親鸞聖人がお伝えくださった『本当』である念仏は、場所や時間に限りなく私にはたらきかけます。そして誰にでも公開性を持っています。加えて、良し悪しを超えたありのままを示して下さるものです。本当の『本当』とはそういうものではないでしょうか。
 始めの中西師の言葉に戻ると、私たちは『本当』を求めずにはおれない存在。しかし『本当』を求める私は『本当』に迷い続ける私。では迷わないためには『本当』を求めなければいいのか?しかしそれは人間にはできない。そう知らされたとき、私が『本当』を求める遥か以前に『本当』の方から求められている私であったと気付かされるのです。
 『本当』からの声に耳を塞ぎ自己流の『本当』を求める先に待っているのは、数限りないネズミ講やカルト宗教の落とし穴かもしれません。

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