嘘でもいいから本当の事を言って (2003.12)


外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり (愚禿抄)


 「遅ればせながら『ライオンキング』を観ました。ディズニーのアニメ映画ではなく、劇団四季の芝居の方ね。
 面白かったですー。上演がもう五年も続いているのも分かります。着ぐるみや人形や仮面など様々な手法を使っての動物表現が多彩、加えて舞台上の仕掛けが満載で、あちらこちらに目を移し続けの三時間。どうしても残ってしまう見落とし感が、多くのリピーターを生んでいるのでしょう。
 表現が手がこんでいる分ストーリーは明快。王位をめぐっての策略により一度国を去った王子ライオンが成長し国に帰って荒れ果てた国に繁栄を取り戻すというものなのですが、中ほどで、国から離れて気ままに暮らす王子ライオンが、帰国して即位するように説得されて一人悩む場面があります。「本当の自分は何者?」この今日的な問いが出されるところもまた、『ライオンキング』がロングランを続ける理由のひとつなのかもしれません。

 「本当」という幻想

 「本当」。私たちの毎日の関心事の多くはこの言葉に促されます。テレビのワイドショーやニュースでは、俳優夫婦の離婚危機の事情は本当のところどうなのか、主力選手の無償トレードの本当の理由は何か、イラク占領地の本当の安全性は・・。世情の物事の正確なところを知りたいというのはとても自然かつ健全なことです。インターネットなどで流される情報が膨大になるほど、どれが本当に役立つ情報なのかと考えることは生活上に不可欠な作業と言えます。その時に選び出される「本当」は、たぶん「事実」とほぼイコールとされるものなのでしょう。
 その「本当」と王子ライオンが悩む自分についての「本当」は、質が異なります。
 「本当の自分」。この言葉が世間でよく聞かれるようになったのはここ十年くらいでしょうか。自分の在り様を見つめ、省察する。それ自体がもたらすものは先の「事実」に近く、あらゆる宗教の取る道でもあります。しかし現在「自分探し」という言葉とともに注目される「本当の自分」は少し方向が違います。かつて尾崎豊が叫び、今、浜崎あゆみをはじめ今若者に支持されている歌手たちのほとんどがテーマとするそれは、あらかじめ極上の価値を備わったものと仮定されているようです。自分の中には貴重な原石が埋まっている。それが磨かれないことにより、あるいは抑圧されていることにより見いだされない。その不安感・不満感・疎外感・無力感。逆に言えば、自らのマイナスを一気に逆転する唯一の術としての「本当の自分」。それにはあたかもある種の全能感さえ備えているかのようです。
 無力感を突き抜けた先にある全能感。それを意図的に作り出したのがひところ問題になった人格改造セミナーや某宗教ですが、その先に昨今問題になっている少年による幼児殺害事件が見えてしまうというのは言い過ぎでしょうか。
 私たちは「本当」を求めないではいられません。そのこと自体は自然なことです。しかし私たちは無意識に「本当」へ自己流の加工をしてしまっています。
 あるコントで、恋人から不実を告白された女性が相手にこう懇願した場面がありました。「嘘でもいいから本当の事を言って」。笑ってしまいながら、ある種の真実をついているなあと忘れられない言葉です。

 「本当」は隠れていない。

 仏教では、いわゆる世間でいう「本当(揺るがない極上の価値)」のものを設定しません。あらゆるものは固定的ではなく、様々な要素の関係性の中で常に常に変化しているという「縁起」の考え方を基本としているので、仏教における「本当」は「事実」以外にはないのです。そしてそれはつねに姿を変えています。
 ですので「本当」は必ずしも=輝くもの、=望ましいもの、とはなりません。
 親鸞聖人は念仏者の身の処し方について、こうお示しになりました。
「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」
 これは実は「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くこと得ざれ」というお経の文をわざと読み替えたもので、元の「内面も外見も一致しなさい」を、「中身がないので立派なふりはできない」としてしまったものです。べし、ではなく、ごとし。本当はこうあるべきとか本当はこうあって欲しいではなく、こうだと認めるしかない私を本当としてそこから常に歩み続けたのが親鸞聖人の求道でした。
 「求道」というと「本当」を「追い求める」、という印象があります。しかしそれでは「求道」が単なる「手段」になってしまいます。仏教の求道とは目的(本当)に向って突き進むものではなく、歩む全体が目的であり、それ自体・それ全体が「本当」なのです。「本当」を都合のいい道具と考えているかぎり、それはどこにもないことを教えています。

   ・・・入場料は高かったけど、

 『ライオンキング』。芝居の冒頭で王ライオンは息子の王子ライオンに「自分もお前も強くはない。あの小さな動物たちの餌となり、草々の肥料となる時が来る。でもかつてのそうしたいのちが今、私たちの中に宿っているんだ」と語ります。この言葉の持つ「本当」さが後に王子ライオンの「本当の自分」をふりかえらせる杖になりました。そこで彼は輝く何者かではなく等身の自らを獲得するのでした。

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