排除せず、転ずる (2003.3)


金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。 (教行信証)


 最近、娘の七回忌を営んだという女性のお話を聞く機会がありました。
 亡くなったときに娘さんはまだ十二歳。家を出てすぐに交通事故に遭われてしまいます。
 なにがなにやら分からないままのお葬式が過ぎ、哀しみの底から少し立ち上がろうとするときに、彼女の内に沸き上がってきたものはどうしようもない怒りの感情だったといいます。
 怒りは事故の相手に対してはもちろんですが、それと同じくらいまず自分自身に向けられました。なぜあの時一言、気をつけて、と声をかけてやらなかったんだろう、あの時一緒に付き添っていればよかったのに・・・。

 支えとしての怒り

 怒りは外にも向けられます。弔問に来た親戚のお悔やみも慰めも耳に入りません。「どうせ私の悲しみなんて分かるわけないくせに勝手なことを言って・・・」娘の同級生がお焼香に来てもお礼は言うものの内心では「あなたたちはこのドアを出たら娘のことはすぐ忘れて遊びまわるんでしょ。娘はもう走ることはないんだ」。僧侶の法話も気にさわります。「なにが浄土よ。なにが念仏よ。それが何になるの」
 やりきれない思いのまま家族だけで一周忌、三回忌を終えます。
 そして七回忌を前にして、気持ちに変化がありました。「今度の法事には親戚や知り合い、娘の同級生も呼んでみようか」

 今までとはまさに一転した賑やかな場がそこにありました。親戚や友だちが娘の思い出や、事故を聞いた時にどれだけショックだったかをいろいろと語ってくれます。
 娘の同級生が昔の写真を手に、親には見えなかった娘の姿をいろいろ教えてくれます。○○ちゃんは、ホントにそそっかしくて、こんなドジなこともあったんですよォ。ええ、あの娘、そんなコだったの・・・。娘とあらためて出会ったかのようなひととき。大人になった元同級生の話に皆で笑い転げて。もちろん、しんみりとした一時もありながら、本当に和やかな、あたたかい法事となったとのことでした。

 悲しみが、見えてきた

 七回忌を勤めて、彼女の中に初めて気づかされたような思いが二つ、生じてきたそうです。
「ああ、そうか、娘が死んだとき、みんなも本当に悲しかったんだ・・・」自分だけの悲しみに埋れていたときは、他人が抱えている悲しみが目に入らなかった。でもそこには、各々の、各々なりの、本当の悲しみがあったんだという大きな安らぎに似た思い。
 そしてもう一つ。娘が死んだとき、悲しみの多くを占めていたのは「もう、娘の思い出は増えないんだ」というものでした。でも、それは違っていました。娘が亡くなった後も、娘の思い出はどんどん増えているんです。自分だけの悲しみに目を塞がれていた時には増えるはずなどなかった思い出が、娘の死という事実に立って、人の悲しみを受け入れることが出来たときに、ひとつまたひとつと増えていく驚き。それは自分が歩んできた過去全体の様相さえ変わっていく実感をもたらすものでした。
 
 過去は、変わる。
 
 わたしたちはよく、「過去はどうやったって変わらないのだから、これからに期待しよう」と考えます。しかし仏教の時間観はちょっと違うようです。仏教では過去さえも固定的なものとは見ません。これからの有り様によって過去を変えうると考えます。過去は変わるのです。もっと理解されやすい補足をすれば、過去の「意味」が変わるということなのですが。
 親鸞聖人は仏さまの利益のひとつに「転悪成善」をあげていらっしゃいます。信心には悪を転じて善と成す力がある。悪を排除して善なるものと置き換えるのではなく、悪と呼ばれていたものの意味合いを底から変えてしまうのが仏さまのはたらきとお示しです。
 娘の七回忌を通してこれまでのことを捉え直す自分を恵まれた、と話す彼女は、こう続けます。ここまで自分を導いてくれたもの、それは娘以外にはありえません。娘が仏さまとなって、この情けない、閉じこもった私を辛抱強く育ててくれていたんだと本当に思うんです、死に別れをしてもそれで終りじゃないんだなと心から思いました、と。
 これまでの事が今、そしてこれからを決めてしまうのではありません。これまでのことは、今、そしてこれからなすことで常に常に変わっていくのです。この、物事を固定的に見ないという仏教の原則は、人のいのちの源泉になりうるはず。
 

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