「標準」を疑え (2002.6) 無明煩悩われらが身に満ち満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、嫉み、妬む心多く閑なく(一念多念証文) ワールドカップ。いやーこんなに面白いものとは思わなかった。白熱した試合自体が面白いのはもちろんですがそれに付随するものが揃って過剰です。勝ち負けに見知らぬ同士が肩をたたいて大歓喜し大消沈する一体感。番狂わせ続出の故か審判への批判が噴出し、大会本部も審判自身もミスがあったと認めてしまう環境。チケットの不手際は結局納まらない。にもかかわらず粛々と進むトーナメント。人間くさくていいかげん、まさに、「ボールは丸い」(これは、だから何が起こるか分からない、という意味の慣用句だそうですね。ドイツのワールドカップのポスターには日本語の墨文字で堂々と「ボールは丸い」と書かれているとか。かなりまぬけですが)。 さて、とりわけ日本ではなかなか体験できない一体感という快感、それを創り上げた日本代表は凄かったと思うし、ありがとう、と言いたい気持ちもわいてきます。 でも、負けたチームにありがとうと言うのは「世界標準」からは外れているらしい。 日本チームの試合後のロッカールームが綺麗で驚いたとの発言がFIFAの幹部からありました。「世界標準」では試合後はバナナの皮やらペットボトルやらが散乱しているものなのに、日本チームのロッカールームはまるで使っていなかったかのようだったとか。なんであれ褒められるのは嬉しいことですが、でもこれって褒められたんですかね。驚かれた、と言うか呆れられただけじゃないか?とうがって見てしまったり。 褒められてあげましょう ワールドカップ開催国ということで、試合周辺の日本の模様が海外に報じられています。聞こえてくるのは概ね好意的な声。多いのは「日本の観客が他の国のチームにも惜しみなく応援を送る姿が素晴らしい」というもの。フランスでは考えられないとか。 これもまた、褒められるのは嬉しいけれど褒められることに違和感も感じてしまいます。他の国であっても、いいプレーや必死なプレーには応援するのは当たり前という感覚が私たちにはあります。それをあらためて褒められると、「あれ、これって世界標準では当たり前ではないのか」となって、それが自信や誇りになればいいんだけど往々にして「標準」に近づきたがるのが私たちだったりもするんですね。「日本の常識は世界の非常識」とか言って。 となると、他の国のチームへは無視したり罵声を浴びせるのが普通のナショナリズム、不利な判定には大きなブーイング、負けを喫した自国チームには石を投げるもの、「感動をありがとう」なんて気持ち悪い、それが世界標準・・・。いいじゃないの、サッカーへの接し方が世界標準じゃなくても(サッカーのレベルは世界標準が望ましいけど)。口先だけの社交辞令だとしても、内心はお人好しと笑われていたとしても、マナーのよさを褒められてあげようじゃありませんか。 「標準」は知っておくべきです。無防備な危険を招かないためにも。でもそれと「標準」に無批判に従ってしまうこととは違う。「標準」って単に声が大きいだけの場合も多いんだから。もともと「標準」は単なる目安にすぎないものですし。 隣の蔵が教えてくれた 「標準」はまた、私たち自身が他者との間に勝手に作って、自分でそれに縛られていることがあるようです。 トルコ戦の明けた朝の寂寥感は忘れられません。開幕前はそれほど期待していたわけじゃない。決勝ラウンドへ進めなかったら格好悪いけどまあそういうこともあるよなあ、くらいの気持ちでいたはずなのに敗戦後はどーんと暗くダウン。この気持ちは正直言って、日本敗戦直後に韓国が勝ったのを横目で見ることで増幅されたことは間違いないと思います。他の国にも惜しみなく拍手を贈れるのは嘘じゃない。韓国が強豪ばかりの中をぐいぐいと勝ち進むのも本当にたいしたもんだと思う。でも韓国やったね!と屈託なく褒められないのは、自分と同等、いやたぶん追い越したと思っていた隣人に目の前で遥か先まで行かれてしまったことへの嫉妬以外のなにものでもありません。 「隣に蔵が立つと、うちは腹が立つ」。 見知らぬ人の出世話は賞賛できても同僚の昇進は祝えないように私たちは仕上がっているようなんですね。私たちは自分の中にいろいろな「標準」を設定しています。自分と隣人との位置関係はこの程度であり、これが「標準」、と無意識に設定してしまっています。この「標準」への思い込みが強固であるほど、それと現実との齟齬が生れてしまったときには納得できない感情が湧き出て抑えられない。 しかしまあ、嫉妬をかかえながらもやっぱり気になって韓国×スペイン戦を見てみると・・・「こりゃー、強いわ」。文句なしのスタミナ。これだけやられたら嫉妬のしようもありません。嫉妬って近しい人にしか湧かない感情であるのと同時に、相手をちゃんと見ていない時に生じる感情なのですね。自分が「標準」としているものは決して絶対なものじゃない、というあたりまえのことをいつも忘れて右往左往する私です。 |