いのちの共振 (2002.3)


十方諸有の衆生は 阿弥陀至徳の御名を聞き
真実信心いたりなば おほきに所聞を慶喜せん(浄土和讚)


 「二一世紀」という響きはイコール「輝かしい未来」だった。今思えばあまりにもあまりにも能天気でしたが、その等式が生きていたのはそんなに昔のことではありません。そう、バブルがまさに膨らんでいこうとする頃、今から十六年前には少なからずの人々が大きな期待を持って二一世紀を思い描いていたはずです。私も含めて。
 そんな一九八五年に投函された手紙が十六年後、二一世紀の幕開けとなった二〇〇一年一月一日に、眠りから覚めたかのように年賀状として配達されました。茨城県のつくば市で開かれた国際科学技術博覧会会場で、ポストカプセル郵便として託されたものです。その数実に三二八万通。文春新書の『二一世紀への手紙〜ポストカプセル三二八万通のはるかな旅』では、十六年を隔てて届けられた手紙の波及を紹介しています。

託された思い

 一六年の歳月は当然手紙を記した差出人も宛先人も、大きな変化を余儀なくされます。幼稚園児が成人となり、高校生は家庭を持ち、社会の第一線で活躍していた人が第二第三の人生を送る。そして変化の最たるものは「死」でしょう。
 亡くなっている夫宛てにかつての教え子から手紙が届く。あるいは成人した孫宛てに、亡くなった祖父からの手紙が届く。さらには亡くなった娘から娘自身宛に手紙が届く。
 それらはやっと薄らいだ哀しみを呼び起こす働きをするものもあったでしょう。しかしこの本で紹介されているすべては、過去からの手紙から何らかの力を得ているのです。
 四歳の息子からの手紙を受け取った天野伸子さんはこう記しています。
「うん?」ハガキを手にして、この郵便が、
四歳の息子が書いたものだと理解した時、
私には、涙しかなかった。
幼いけれど、力いっぱい
ハガキから はみ出しそうな元気な字。
ぼくわ おおきくなったら きゅうきゅうしゃの うんてんしゅに なりたいのです あまのあつと
そうだったの・・・。
救急車の運転手になりたかったの・・・。
知らなかったよ おかあさん・・・。
夢中で子育てをしていたあの頃がよみがえる。
一九九九年十二月七日
十八歳の息子が、白血病と闘って、闘って、そして旅立った。
これは 最後まで 生きる希望を失わず、
いつも冷静で 明るかったあなたからの、
前向きに生きろというメッセージ、
私にくれた最後のプレゼント。
よかった。会えてよかった。
届けてもらえてよかった。
あなたの同級生は、今日、成人式です。

有難う

 『二一世紀への手紙』では、手紙を手にした人の非常に多くが、手紙への感謝の思いを抱いていることが紹介されています。手紙に書かれた内容を有難く思うということもあるでしょう。しかし、手紙の大半は他愛のない内容です。それを受け取って生じる感謝の念とは、親しいあの人が生きていたこと自体への感謝であり、それを思い出させてくれたことへの感謝であり、さらにそのいのちが、まさに今の自分のいのちを(自分が意識していない十六年間ずっと)支え続けていたことを知らされたという思いの発露だと言えるのではないでしょうか。
 先に紹介した天野伸子さんは、息子の無邪気な文面を、「前向きに生きろというメッセージ」と受け止めています。かつて確かに触れ合えたいのちがあったという事実。その事実にうなずくだけで、人は力を恵まれます。私たちが人と出会うということは一過性のものではありません。いのちの共振は私自身の意識にかかわりなく、決して止むことはないのです。

届いている「思い」

 そうしてみると、つくば博会場から手紙が届かなかった私たちにも実は過去からの手紙がとうに届いていたことに気づかされます。私がここにいること。こうして在ることが限りない過去のいのちの集成であるのは、なによりこの身が知っていることでした。でもそれに気づこうとしない頑迷な私のために記されたのが「南無阿弥陀仏」という手紙なのでしょう。幾多の懐かしいいのちに、この今、連なって支えられている私。その気づきから生起する暖かさはあたかも春陽のようです。

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