憎さあまって (2001.12)


怨みは怨みをもってしては決して静まらない。
怨みは怨み無き心によってのみ静まる。
(法句経)


 女優、樹木希林さんがこんなことをおっしゃっています。
「最近ではいろんな分野の人が役者の世界に入ってきますよね。そういう人自身が面白くても、芝居作りというのにはアンサンブルがとても必要でしょう。それで嫌になっちゃって、相談されたキャスティングに口を出したことがあるんですよ。自分が感性がいいと思う人だけ集めてやったらいいだろうと思って・・・・そしたらとてもつまらないものが出来たんです。ということは、自分が持っていないものとぶつかったときに、その人との間に出来る空間が役者として大切なんですね。」」(大河内昭爾『心に遺る言葉』巴書林刊より)

期待通りという狭界

 樹木さんと言えば鋭い感性で知られる役者です。さりげなく登場しながら僅かな所作だけでその場面の味わいを一気に深めてしまう技術と目配りを持つ彼女にとって、たいした経験もないのに訓練もせず、かといって斬新な感性もない、自分が未熟だという自覚もなく何よりそれを恥とも思わないで芝居の場に立つ、ある種無防備で鈍感で怖い物知らずな人たちの演技や反応が不快であったことは想像に難くありません。
 そんな彼女がある芝居で、どんな役者を使ったらいいか意見を求められたそうです。樹木さんは日頃の不満を晴らす良い機会が得られたと喜んで、感性や技術が優れていると樹木氏が認める役者ばかりを集めた芝居が実現しました。
 そうして幕が開いてみると・・・非常に凡庸なものになってしまったというのです。
 おそらくはこういうことなのでしょう。この人たちが集まれば、このぐらいのものはできる、と期待できます。はたしてその結果は、たしかに期待通りのものはできた。しかし、期待通りのものしか、できなかった。舞台は自分の想像力の範疇に納まるものでしかなかったということなのでしょう。そこに感動がなかったということです。感動とは、いうなれば自分の中の何かが壊される体験のようです。自分の期待や想像をある意味で裏切り、思いもかけなかった方向へ引きづられる一種の「不安」こそが、人をワクワクさせます。自分の内の何かを傷つけ、壊し、再構築を余儀なくされるものとの出会い。それは全く共感を伴わないとしても、人の生を豊かにする上での重要な要件と言っていいかもしれません。

他者は必ず横にいる

 樹木氏の体験は、私たちが他者と関わることの意味を教えてくれます。他者と関係すると必然的に摩擦や軋轢が生れます。それらは決して歓迎されるものではありません。しかし実は、自分を新たなステージへ導き、開いてくれる「出会い」はそういう形でしか現れることはないとも言えそうです。事実として、私のいのちは、私の都合を超えたところで発揮されています。ならば、私のいのちがもしかしたら私が嫌悪するものによって支えられているのではないか、唾棄すべきものなしには成立しえないということさえあるのではないか、と思い到ることも難しいことではありません。その時すでに、他者という存在は(そして自分という存在も)好き嫌いという判断とは次元を異にした貌を露にしています。

救いに到る方途

 ここで「共生」という言葉を思い出します。
 「共生」。この十年ほどは流行語のように人の口にのぼるようになったこの言葉は、どうもみんな仲よく手をつなぐ、という幸せな状態を想定されているのではないでしょうか。しかし、それでは共生という言葉のもつダイナミックさを見落とし、減殺しているような気がするのです。共生とは仲よくすることではないでしょう。顔も見たくない、殺してやりたいほど憎く思う相手とも、手を繋がなければ生きていけないこの我が身を言い当てた言葉が共生だと思います。相手への憎悪はそのままに、しかしその憎い相手のいのちが私のいのちを支えているのかもしれないことを想像していく、それが共生という言葉の示す世界だと思うのです。
 仏教には「怨みは怨みをもってしては決して静まらない。怨み無き心によってのみ静まる。」という法句経の一節があります。
 この三ヶ月間、多くの仏教者が口にしたこの言葉は仏教の寛容の精神を表したものと思われがちですが、少々違います。これは、まず怨みを抱いた因、怨みを抱かれた因にこそ注意を向けよ、それが感情に踊らされる愚を回避できる術であるという勧告なのです。怨みは自分で消そうと思って消せるものではありません。しかし怨みに正対し、それを生み出したものをいくらかでも知ることがあれば、自ずから冷静な対処を選択するようになります。
 同じ感情の共有が癒しをもたらすのは認めます。しかしそうではない救いの方途があることを私たちは既に教えられていたのでした。                 

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