モンタージュの手法を超えて (2001.9)


かの智慧の眼を開きて、この昏盲の闇を滅し、
もろもろの悪道を閉塞して、善趣の門を通達せん。
(大無量寿経)


 この夏、路上で姉妹で遊んでいた小学生女児が車で誘拐されるという事件がありました。容疑者はまもなく逮捕されましたが、その大きな役割をはたしたのが誘拐犯の似顔絵でした。被害者の女児の記憶力に感心する声も聞かれましたが、このケースに限らず、最近は事件の解決に容疑者の似顔絵がとても有効に活用されています。

 足し算だけでは足りない

 一昔前、犯人逮捕の手がかりと言えばモンタージュという技法がありました。それが今はまったく使われなくなっています。理由は簡単。似ていないからです。三億円事件が未解決だったのはあのモンタージュ写真が足を引っ張ったというのは確かなようです。
 モンタージュ写真の作り方は、ご承知の通り部分を寄せ集めるものです。輪郭は、髪型は、目の形鼻の形口の形・・・その和が顔になると、たしかに部分は似ているといえる(あたりまえです)のですが顔全体を見るとまるで別人、というしろものになってしまうことも珍しくありません。
 それに対して、似顔絵描きの手法をテレビで見る機会がありました。
 事情を知らされない人の前で突然に強盗劇が演じられます。驚愕と恐怖の十数秒を体験した目撃者に犯人の顔かたちを思い出してもらうのですが、似顔絵画家のはじめの質問は、どういう職業の人だと思った?というもの。その後描き進んでも、部分の話はほとんど出てきません。印象を聞き重ねていってでき上がった顔は、まさに強盗役の役者そのものでした。
 部分の集積がすなわち全体には決してならないということです。なぜなら、全体を形づくっているのは個々の個性以上に、それらのバランスそのもののはたらきなのですから。まして、部分だけを見ることで全体を推し量るのは危険であり、怠慢だと言えそうです。

分かりやすさに陥らないで

 先日のニューヨークのテロ事件の直後、犯人はパレスチナ過激派の犯行の可能性もあるという推測がされ、テレビでは路上で歓声をあげるパレスチナの人々の姿が流されました。その様子は見る者にあきらかに不快感と怒りを誘うものでした。事件の翌日には私の知人が所属するパレスチナ難民支援団体にテレビ局から依頼があったそうです。東京在住のパレスチナ人を紹介してほしいとのこと。宴会風景を撮りたいとでも思ったのでしょうか。
 パレスチナでは特にこの一年間にイスラエル側の度重なる攻撃によって多くの一般民衆が殺されてきています。目前で家族や知人を殺された経験を持つ人々の一部に、殺戮を黙認してきたアメリカがテロを受けたことに快哉をあげる者があったとして、共感は全く出来ないにしろ責める言葉は持ちえるでしょうか。しかしそれを(結果的にではあるでしょうが)分かりやすい対立項として配置する報道姿勢はただ偏見を助長するものでしかありません。
 テロがイスラム原理主義過激派ビンラディン氏の主導である疑いが濃くなり、パレスチナ絡みではないことが明らかになるにつれて先の映像が流れることはなくなりましたが、日本人にとっては同じアラブ人、同じイスラム教徒として同一視する方が主流でしょう。しかし言うまでもなく、アラブ圏もイスラム教徒も一様ではなく、イスラム原理主義とその過激派もまた異なります。
 私たちと同じように、彼らもまた多様なのです。

私は見えていない。だから

 暗闇の中である動物を数人で囲み、各人にその場を離れることなく動物に触らせて、それはどのようなものかを発表してもらいます。ひものようなものと答える者、壁のようなものと答える者、柱のようなものと答える者がいます。ではそれらを互いに深めることなく寄せ集めたとしたら、どんな姿ができることでしょう。先の答のひもはしっぽ、壁は腹、柱は足だったのですがそれらをただ足しただけでは象という動物にたどりつくのは難しそうです。
 自分が目前のものしか手にしえないのが分かっており、しかし大局観に立つ術もないとしたら、目前のものを持ちあっている同士がただの足し算ではない話し合い、互いの理解を交換する姿勢が必須でしょう。
 先に、テロに快哉するパレスチナ人に共感はできないが責める言葉はない、と書きました。それはアメリカにも同様に言えます。テロへの報復の表明を責める言葉はありません。しかし、支持はまったくできません。大統領自身が言う「数年続く戦争状態」の有り様と日本政府の対応に大きな危惧を抱きつつ注目します。
 恨みは、恨みによっては消えない。
 恨みなき心によってのみ消える。
(法句経)■

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