海外であなたの宗教は何ですかと聞かれたら (2001.7)


世間を利益して安楽なら使めん(教行信証)


 民間国際協力の仕事をしている女性から聞いた話です。
 アフリカのニジェールに入ろうとした時のこと。入国審査書に宗教欄があり、ついつい「無い」と書いたら入れてもらえなかったそうです。そこであわてて「仏教」と書き直したら、やはり疑われて、質問責めにあったとか。そこで最後の質問が「ところでブッダは身長何センチだ?」
 彼女も「誰がブッダが今生きていると言った。わたしゃ会ったことがない」と思ったそうですが、そう答えるわけにもいかず「大仏は十二メートルか・・・」と思い直し「十メートルだ」と答えたら、入国審査官も非常に感心して入国させてくれたそうです。ニジェールにはキリスト教徒が多いそうですが、身長十メートルのブッダは影響力大の様。

「無宗教」でいたいのは

 夏休み。海外に家族でお出かけ、という方も多いことかと思います。そして現地の方と仲よくなると、話題が宗教に及ぶことは珍しくありません。その時にみなさんならどうお答えになるでしょう。
 冒頭に紹介したように、一般に日本人は「無宗教」と答える方が多いようです。またその答が相手の方に奇異な印象を持たれるということもまた事実です。
 「無宗教」と答える心理には、次の三つくらいがあげられるでしょうか。
@宗教は「凝り固まったもの」。アラブ地方などで「宗教戦争」と聞けばやっぱり無宗教がいちばん。選挙前だけ親しげに電話をかけてくる○○会の人たちの身勝手さにも辟易。
A宗教は弱い人がすがるもので自分は必要としていない。困った時の神頼みや「他力本願」なんてみっともない。
B○○教に所属しているというような規定をされたくない。私は私。レッテルから自由でいたい。
 宗教にはこれらの要素があることは事実です。しかしそれは枝葉にすぎません。宗教をこれらのように考えている限り、海外の人が「無宗教」を奇異に思うということは理解できないでしょう。
 海外で言われるところの宗教を説明するとしたら、「自分が立っている基盤」「他のすべてを失っても自分が自分でいられる根拠」とも言うべきものです。あえて譬えるとすれば、突飛に思われるかもしれませんが、日本人にとっての「お金」を思い浮べていただくと一番近いように思います。

大事にしているものはなんですか

 世界中どこであってもお金を大事に思わない国はありません。でもそれはしょせん交易・流通上の「手段」「道具」です。しかし日本人はお金にお金自体を超えた何ものかを託しています。
 充分な蓄えがあっても買い物をするでもなく寄付をするでもなく細々と暮らしている方がいます。国の政策に信頼が置けないという以上に、その方にとっては蓄えがあるということ自体が自分を支える基盤となっているのです。また、生活保護を過度に忌避する方もいます。低収入を認めることがすなわち自分の全存在の否定と考えられるからです。
 海外、特にアジアを旅行するとぼろぼろになって穴があいたお札をよく目にします。十枚二十枚とまとめる時にホッチキスでとめるためです。また、なにやらメモをしたお札もよくあります。しかし日本人はお札をホッチキスでとめたりメモ用紙代わりに使うことはできません。抵抗があります。お札が「本尊」化しているためです。
 かつて日本人がエコノミックアニマルと外国から呼ばれたのはあまりにも言い得ていた表現だったと今にして思います。外国人にとっては「道具」や「手段」にすぎないものを「目的」化しているのですから。いや実はそれは「目的」でもなくそれ以上の宗教的情熱だったと説明したら、エコノミックビリーバーと訂正してくれたかもしれません。
 「私はお金を信じない」と言いながら笑って千円札を燃やしている人を想像してください。なんとも不愉快で不気味です。海外で「無宗教」と自称することはそんな不愉快で不気味な人間に見られるとご承知ください。

「仏教徒」であること

 でも仏教徒と自称はしても、年数回のお墓参りや何年かに一度の法事以外は寺に行くこともなく、お経も読んだことがない、教義も説明できない、という方。ちょっと準備をしておきましょう。
 仏教とはどういう教えか、と聞かれて「さとり」なんて言葉を持ち出すと墓穴を掘ります。「限りないいのちに支えられて生きていることを自覚する」あたりではいかがでしょうか。簡単すぎる?大丈夫。教義論争をしようと目論んでいる人はそうはいません。宗教を尋ねてくるときは相手が大事にしているものを話題にしてくれているのです。それって嬉しいことでしょ。
 また先に書いたように宗教は「自分の立つ基盤」です。それを持たない奴は・・・やっぱり油断ならないですよね。■

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