適応という罠 (2001.3)
罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき (正像末和讚)
真宗大谷派の僧侶、四衢亮さんがこんなご経験をされています。
身体検査を受けたところ、血液中のカルシウムの量が多く、リンが少ないという結果が出たそうです。副甲状腺の異常が原因で、ホルモンが普通の人の三倍も分泌していたためと分かり、手術となりました。幸い手術もうまくいき、術後の経過も順調で、血液の数値はすべて正常に戻ったとのこと。
その正常値に戻る時に、手足の先に痺れが現れたというのです。手術の失敗か?また別の異常が現れたのか?四衢さんは 少なからず心配されたでしょうが、お医者さんに相談したところ、身体がいつのまにか異常な血液の状態に慣れていて、正常な状態に戻ったことに、かえって身体が反応しているのだということでした。身体はすっかり、異常な状態に慣れきっていたのです。
四衢さんはこう指摘します。
「私たちは、異常な中に長いこと置かれるとそれに順応してしまい、自分と社会の不自然さになかなか気づけないのです。そして、指摘されても、素直に認めるより、拒否した反応が出てしまいます。さらに、拒否反応に固執して、反応を正当化するために、不自然なことを正常だと言いくるめようとさえします」。
ここで某国の首相とその後継者選びを連想した方も多いでしょうが、今回はそれは置いといて。
愛情の形と思いたい
「異常への順応」に関して、哀しい例があります。
先月、香川県の高松にある「若竹学園」という、情緒障害児のための治療施設を見学してきました。ここは、何らかの外からの暴力を日常的に受けることで心に深い傷を負ってしまい、日常生活が困難になった小中学生が、集団生活をしながら治療やリハビリをしていく施設です。彼らの傷の原因は当初はイジメも多かったそうですが、数年前からほとんどが親の虐待によるものとなっています。
子どもたちが心身に障害を負ってしまうまで親から虐待を受け続けるのは、子どもたちが非力で抵抗できなかったり、監禁されていたためではありません。抵抗するほどさらにひどい暴力を受けるためにされるままになる傾向もあるのですが、それ以上に、子どもたちは日常的に親から虐待を受けると、それを親の愛情の表現と解釈してしまう場合があるそうなのです。
親も楽しみながら暴力を振るうわけではありません(そういう例もないではありませんが)。ストレスが原因でありながら本人の意識上では躾のつもりで子どもを殴ってしまってすぐに我にかえり、殴った子どもを罪悪感からごめんなさいと抱きしめる。それが繰り返されると殴られる行為と抱きしめられる行為がセットとなって、子どもは混乱しながら親の愛情の行為の一連と受け止めようとします。その結果、子どもは虐待から逃れることを自ら放棄して、心身ともに社会生活が送れなくなるほど、時には命にかかわるほどの状態になってしまうのでした。
異常の中に順応しようして別な傷を負うこのような例は今は決して特異なものではなく驚く数が確認され、厚生労働省では現在全国に十七しかない情緒障害児短期治療施設を各都道府県に最低一つは設置する方針をとっています。
思い込みの危険
罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき
親鸞聖人は、人が苦しむ、あるいは人を苦しませる結果を生み出しているのは、誰しも抱く「妄想=思い込み」や「顛倒=思い違い」に原因があると押さえています。そしてそれら思い込みや思い違いを克服して自由でいる人などいないという認識をお持ちです。
異常に順応するのが「若竹学園」の子どもたちのように自分の心身の悲惨を最小限に抑えたいという思いからであるなら、精神の緊急避難として認められるかもしれません。しかし、同じ顛倒を彼らの親たちがいつまでも認めなかったとしたら、それは人のいのちそのものを奪う行為に直結します。
物事を判断するときの軸を私たちは無意識のうちに「私」に置いています。しかし、いつのまにか「私」が絶対化してしまうことの危うさを私たちはどうしても忘れがちになってしまいます。そこにあって仏教は、絶対化に固着する私を解こうと
「仏の尺度」を提示するのです。
冒頭に紹介した 四衢さんは自らの体験をもとにこう省みます。
「私が真実であると思ったり言ったりしたときは、かなり危ういのかもしれません。真実というのは、私が真実になるのではなく、私の異常さ不自然さを、どこまでも指摘してやまない『はたらき』なのでしょう。」■
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