ベストセラーの小説を映画化する困難について(2000.10)
無碍光仏のひかりには 清浄・歓喜・智慧光
その徳不可思議にして 十方諸有を利益せり(浄土和讚)
これから紹介するクイズを、電卓で計算などしないで、直感で答えてみてください。
ここに一枚の新聞紙があります。厚さは〇・二ミリとしましょう。ではこの新聞紙を百回折り畳んだとしたらその厚さ、と言うより高さは次のうちのどれくらいになるでしょう。
1、三階建ての家(10 m)くらい
2、東京タワーの高さ(333 m)くらい
3、富士山の高さ(3776 m)くらい
4、太陽への距離(15000 km)くらい
5、宇宙の果て(9.4×10の21乗km)以上
いかがでしょうか。直感で、とお願いすると2と答える方が多いようです。しかし実は正解は5。9.4×10の21乗km以上にまでなってしまうそうなのです。宇宙の果てをどれだけ想像できるでしょうか。
想像力に自信ありますか
私たちはしばしば、「想像できないほどの〜」と口にします。しかし、私たちは「想像できない」ということを少し甘く見ているのかもしれません。自分の想像がこれだけだから、想像できないというのはそれを少し越えた程度だろう、と考えがちです。でも実はそれも想像の範囲内でしかないでしょう。そしてその想像という奴がくせものです。
小説を読んだ後でその映画化されたものを観ると、配役への違和感が最後までぬぐえずに物語を楽しめなかったという体験をお持ちの方は多いでしょう。小説が面白かったという記憶が大きければ大きいほど、映画とのギャップは大きくなるはずです。小説により育まれた自分の想像は知らずに自分の中で固定化します。映像化された時に感じる違和感は、自分の想像の産物が、自分自身の自由を拘束している例と言えるかもしれません。
自分の人生を決めつける傲慢
元大谷大学学長の広瀬杲氏のもとに、ある娘さんがお母さんに連れられてやってきました。彼女は仕事上のトラブルから自殺を図り、以来性格が変わって生きていく望みがなくなったというのです。
挨拶もしない娘さんに広瀬氏はこう語りはじめました。
「私の独り言のつもりで聞いてください。あなたは今から三ヶ月前に、三ヶ月たったら広瀬という人間の前に座るというあなた自身を想像してみたことがありますか」
ありません、という彼女に広瀬氏は続けて、
「三ヶ月前には思ってもみなかったことがあなたの想像を超えて今、現にここにある。これはどういうことなんでしょう。あなたは生きる値打ちがない、どうしようもないと生きる目的を失って自殺をしようとしたそうだけれども、明日はどうなるのか、どんな自分になるのかあなたには想像もつかないはずです。すると、あなたが明日は真っ暗だという人生、生きる望みがないということは、あなたはあなた自身の人生に対して傲慢だという証拠ではないですか。自分の人生を自分で決めつけるということは傲慢なことなんです。その傲慢が払われてみると、実は昨日の私と今日の私とでは確実に変わっているということがあるのではありませんか」
人生に行き詰まりはない
自分で自分を決めない、それが仏教を生きる者の道だと広瀬氏は語ります。私はこういう人間だ、私にはもはや明日はこうしかならないのであると自分で自分を決めない。決めないから与えられた自分を生きるということが出来る。そこに行き止まりのないいのちの歩みに正直である私が生まれてくるのではないでしょうか、と。
浄土真宗の本尊、阿弥陀如来の「アミダ」とは、古代インドのサンスクリット語の「限りない」という意味に漢字をあてたものです。これは漢語に訳しますと正信偈の冒頭にある「南無不可思議光」の「不可思議」。私たちが思議することが不可である、想像できない、想像を超えたはたらきが私に向けられているということを教えた言葉です。
それは、仏のはたらきを私物化しようとすることへの戒めとも言えます。
この私を目覚めさせようとする仏(真実)のはたらきを、自分の想像力の範囲内に押しとどめてしまい、さらには自分の都合に合わせて受け取ろうとするのが私たちです。
それは矮小化の作業に他なりません。
常に自分の都合を中心にしてしか物事を考えられない私に対して、仏教は「不可思議」なはたらきをもって、本来は行き止まりのないいのちの歩みを行き詰まらせているのは自分の都合そのものであることを教えているのです。事実、私のいのちの在り様は私の想像や思いなど軽く超えているのですから。
「人生に行き詰まりはない。行き詰まった『思い』があるだけ」先達の言葉です。 ■
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