みんなちがって、どうでもいい? (2000.8)

池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光

微妙香潔舎利弗極楽国土成就如是功徳荘厳 (阿弥陀経)


 金子みすゞ。没後六十年たってはじめて世間に知られるところとなった童謡詩人。バブル崩壊後の日本人の心を、相田みつをと共に癒してきた功績は多大なものがあります。
 その決して多くない作品の中で、おそらく最も人々の口にのぼったのが『私と小鳥と鈴と』でしょう。「みんなちがつて、みんないい」という一節は、自分の居場所をあらかじめ喪失してしまったかのような不安感を持つ現代人に、そこにいてもいいんだよ、君は君自身のかけがえのない価値を持っているんだよと、生きる承認を確かに与える力があります。
 しかし近頃、この詩の受け入れられ方に首をかしげずにはいられなくなる場面が多くなっています。みんなそれぞれの価値観を持っている。だから、それぞれの価値観を大事にしましょう、と一見美しい態度をとりながら、現実に現れている相は、みんなそれぞれなんだから放っておこう、というものです。これは、相手を尊重していると装いながら、相手と関わることを拒否している姿でしかありません。「みんなちがって みんないい」には、他者の、自分とは異なる部分を愛そうとする姿勢があります。しかし現在見受けられるのは他者への、単なる無関心です。すなわち、「みんなちがって、どうでもいい」

無関心は愛情から最も遠い

 江戸川大学助教授の小笠原祐子氏は、近頃学生たちと何を議論していても、誰かが「人それぞれ、いろんな考えがあると思うし、それでいい」と発言し、そのとたん議論が成り立たなくなると困惑しています(朝日新聞2000年7月11日論壇)。
 異なる意見を尊重していると見えなくもないがしかし釈然としない。そんな違和感は学生たちのこんな態度ではっきりとします。
 小笠原氏は講義で、交通事故で娘を亡くした父親の手記を取り上げました。過失とはとうてい思えないような重大な事故を起こしても加害者に手厚い現行の諸制度は、人の命よりも車や企業を重んじる社会だと主張する著者に対し、学生たちの反応は一様に鈍く、むしろ加害者に同情的だったとのことです。被害者側の見解だけでは一方的だと言うのです。だからと言って学生たちは加害者の人生に想像力を働かせたわけではなく、まるで、異なる二者の間で意見が分かれた場合は、足して二で割ればちょうどいいと思っているようでした。提起している問題の社会的意味も当事者の感情もまったく眼中になく。
 その根に小笠原氏は、「人それぞれ」という美名の下の無関心があると指摘します。「『価値観の多様化』や『個人の自由』ということばの響きのよさにまどわされて、私たちは異なる意見に耳を傾け、異なる立場の人々に心を重ねる努力を怠ってはいまいか。しょせんいろいろな考え方があるからと、初めから議論を高める努力を放棄してはいないか。」
 みんな「やさしい」のです。「やさしい」から、議論などで対立点を明らかにして相手を傷つけてしまいかねない(ことで自分がもっと傷つく)ことを回避しようとするのです。でもそれはたしかに自分には「やさしい」かもしれませんが、他者に対してはどうなのでしょうか。いや、そもそもそこに「他者」などは存在しているのでしょうか。

色あり、光はなつ

 『金子みすゞの生涯』(矢崎節夫著)によれば、みすゞが育った山口の仙崎は浄土真宗の盛んな土地だそうです。彼女も通っていたとされる寺の日曜学校で読まれる阿弥陀経というお経には、こんな一節があります。
「池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。」
 それぞれの色がそれぞれの光を放つことこそが仏さまの世界だと示されます。色が自分の存在と個性の主張だとするなら、光とは即ち、他者を照らす働きです。他者を認め、他者への働きかけをしようとする思いが光と表現されているのです。
 人が百人いれば、百通りの価値観があり、百通りの幸せがあり、百の色がある。それはその通りです。でもだからそれぞれの勝手でしょ、と関わることがなかったとしたら、それぞれが単色の底に自閉していくしかありません。それは一面では甘美なものでしょうが、時には他者を見殺しにすることもありえます。いじめを目撃しながら「いじめられていた奴だって、本当は楽しんでいるかもしれないから放っとこう」という具合に。
 他者を尊重することと他者に関わろうとしないことは全く別のことです。経典が描く互いが互いの光をもって輝き合う姿は、それぞれの違いを認める者たちが、関係しあうことによってこそ、それぞれの個性が本当に伸びていくことを教えているようです。■

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