それぞれの時(2000.5)


無碍光仏のひかりには 清浄・歓喜・智慧光 
その徳不可思議にして 十方諸有を利益せり (浄土和讚)

 先日、御門徒から、こんなお話をいただきました。
「今度、家を新築するのですが、地鎮祭ってやった方がいいんでしょうね?そういう時はやっぱり地元の神主さんにお願いするんですか?私としては住職にお願いしたいんですけど・・・」
 よくぞ聞いてくれました。
 世間では人生の区切り区切りの行事で、おめでたいときは神社、悲しみ事は寺、なぜか結婚式とクリスマスだけ教会、と住み分けというか使い分けがされていますが、はっきり言ってそれは無節操というものです。服のコーディネイトを気にするあなたなら、人生のコーディネイトがチグハグなのは恥ずかしいということがお分かりいただけるはず。

恐れのためでなく

 家を新築するときの区切りの法要は仏教式でも営みます。ただし、神道式とはかなり意味が異なるようです。
 神道式の地鎮祭は広辞苑によると「基礎工事に着手する前、その土地の神を祀って工事の無事を祈願する祭儀。とこしずめのまつり。」とあります。
 それに対する仏教式は「起工式」と呼びます。その意味するところについては、真宗大谷派の酒井義一さんが次のように整理してくださいました。
「仏式の起工式では、土地の神を祀るようなまねはいたしません。土地の神などのたたりを恐れ、事故や災いに恐れをなすのが私たちでもありますが、仏教はそうした私たちの持つ根源的な「恐れ」から、私たちが本当に自由になることを目指しているからです。したがって仏式の起工式は次のようなことを大切にします。
 第一に、新しい建物は(たとえそれが家庭でも職場でも)仏教の教えを聞いていく場所です。そのような道場建立の始まりをお祝いする儀式です。
 第二に、道場建立と同時に、私たちの中にもまた、仏の教えを聞いていく姿勢を建立しようと仏にお誓いをする儀式です。
 第三に、木材という木々のいのちなどを戴いて、新しい建物が出来上がるということに思いを馳せます。
 第四に、施主・設計者・施工者などの交流の深まりを通して、より良い建物の完成を願う儀式です。」

敬っているつもりが

 「土地の神を祀る」というのは一見すると自然を敬っている態度に映ります。しかし、その本当の目的が単に「工事の無事を祈願する」というようなものであるなら、手を合わせている先にあるものは神でも自然でもなく、自分勝手な都合でしかありません。事実、文化人類学者の上田紀行氏は、国際学会に行った時に外国人からこう尋ねられ、返答に困ったという経験を何度もお持ちです。
「日本の宗教というのは、自然と一体化して自然を敬っているそうだが、なんで日本は世界まで出て来て環境破壊してフィリピンの森を剥ぎ、マレーシアの森を剥ぎ、今インドネシアの熱帯雨林を切っているんだ、なんで自然保護をしないんだ」
 手を合わせたことを免罪符として他を際限なく傷つけていく姿は、手を合わせた対象が神にまで仕立てた「自分の欲望」でしかなかったことを知らせます。
 仏教の儀式は、目的遂行のための手段ではありません。それぞれの時それぞれの場における自分の立ち位置を常に確かめるという姿勢そのものです。起工式もまた、さまざまな縁の集積によってしか工事が成り立たないことの不思議さを改めて知らされる機会となり、それによってさまざまな縁の一つ一つを本当にいとおしく思えるようになったら、その後の生活の煌めきが変ってきますよ。

無事でなくていい

 人生の区切りの行事(通過儀礼)は、他の宗教にあるものはたいてい仏教式でも営みます。
 赤ちゃんが誕したら初参式。子どもが成長するにつれ七五三や成人式。家庭を持って結婚式。家を立てるときは起工式。銀婚式に金婚式。もちろん葬式、法事。
 いろいろな宗教が同じような行事を設定しています。しかし外見は似ていても、その意味合いは宗教間で大きく異なります。本当の仏教では、無事な人生であることなど祈りません。無事でない人生をも確かに引き受けられる私に育てていただく。仏教にはそういうはたらきがあるのです。
 ここで挙げなかった例でも、こういう行事や法要は仏教では、あるいは浄土真宗ではあるのですか、それにはどういう心持ちで営めばいいのですか、などなどどうぞお気軽にお問い合わせください。■

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