君の名は (2000.2)
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
(浄土和讚)

 ゴダイゴ。二十年前、当時の日本ロック界のテクニシャンばかりが集まって結成されたスーパーバンドです。日本語と英語の壁を軽々と跳び越してみせた彼らの曲の数々は、高い音楽性と大衆性を両立させて広い世代に受け入れられたのでした。
 解散して久しかった彼らが昨年暮、期間限定でオリジナルメンバーが集まって再活動していました。「銀河鉄道999」や「ガンダーラ」「モンキーマジック」など湿り気の一滴もない曲の数々は、今聞いても貴重な新鮮さを感じます。
 そんな彼らの代表作の一つに「ビューティフル・ネーム」があります。
 名前 それは燃える生命 ひとつの地球にひとりずつひとつ・・・・
 この曲、私は発表された当時はなんて能天気な歌だろうと軽く見ていました。たぶん能天気な「ビューティフル・サンデー」と同様視していたのでしょう。でも、いつからかこの詞に託されたものが思いのほか深いと見直すようになったのです。
 
名前は公開性を持っている
 
 なぞなぞです。地球上のすべての人、女も男も、赤ちゃんも老人も、大富豪も貧乏人も、少なくとも一つ(場合によってはいくつも)必ず持っているものはなんでしょう。いのち?いのちなら皆一つだけですよね。答は「名前」です。
 誰もが必ず自分の名前を持っている。でもそれは自分のものでありながら、自分で私有したり、独占するわけにはいきません。自分のものだから誰にも見せずに財布にしまっておいたのでは、名前の役をはたすことはできません。
 名前は、他者に公開し、他者と共有することで初めて意味を持つものです。名前を持つことは、他者(その人が好きであろうと嫌いであろうと)と共に自分がある、(良くも悪しくも)自分は一人きりじゃないという事実を引き受けることなのです。
 また、人の名前には、名づけた人の願いが込められています。人の名前は単なる記号ではありません。名づけ主の、こうありたい、こう育って欲しいという(しばしば身勝手なものではありますが)願いが形になっているのが名前です。
 一人きりではない自分。願いをかけられている自分。それを示す明確な証を君は持っているんだよと語りかけるゴダイゴの「ビューティフル・ネーム」を今の世情を背景に聴くと、曲の明るさがそぐわないと思うほどの重いメッセージを感じてしまいます。

柏崎の片隅で

 ここで唐突なようですが、新潟県柏崎市での少女監禁事件を思い出します。なにやら警察組織のデタラメさをさらけ出すこととなってしまいましたが、理不尽な事件が続発する中でもやはり際だって特異なこの事件で私が忘れられないのが、監禁された少女が部屋で一人書きつづっていたノートの存在です。
 そのノートに彼女は、自分の名前だけを繰り返し繰り返し書いてページを埋めていました。
 家族や友人をはじめとして、外界から閉ざされた絶望の中で、自分を必死に持ちこたえようとしていたであろう彼女にとって自分の名前は、崩れようとする精神を立ち戻す最後の杭となっていたのでしょう。名前を書きつけながら彼女は、呼びかけられる存在としての自分を守ろうとしていたように思えます。あるいは人は、呼びかけられることによってしか、自らの存在を確かめられないということなのかもしれません。

本尊が名前であるということ

 人が「呼びかけられる存在」とすると、仏(如来)は「呼びかけ続ける存在」と位置づけることができるでしょう。
 浄土真宗ではもっとも大切な礼拝の対象を「名号」としています。浄土真宗の本尊は阿弥陀如来ではありますが、正確には「南無阿弥陀仏」という名号を本尊としています。
 名号の「号」とは強く呼びかけること。「名」は他との繋がりを前提とした(公開性を持った)願い。ではどのような願いかと言うと、「阿弥陀」。無数のいのちのひとつひとつを本当に輝かさずにはおかない、という願いです。そういう願いが立てられたということは、この世の中ではいのちのひとつひとつが生かされていないという厳しい認識と痛嘆が根底にあるのは言うまでもありません。つまり名号としての本尊とは、こちらが敬い拝む鎮座した対象ではなく、逆に、自分が一人きりで生きているとある時は沈み込み、ある時は思い上がる私に向って、お前は一人ではないんだよと常に呼びかけてくださっている働きそのものを本質としているのです。だからこそ、本尊=本当に尊い、と呼ばれるのでしょう。
 呼びかけられるものとして名前を授かった私が、呼びかけられている事実を深く受けとめることができたとしたら、それは、いわゆる「救い」のひとつの形に違いありません。それを拒否しがちなのが私たちの本性ではあるのですが。■

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