魚鳥を食する僧(1992.10)
外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ
貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり
(正像末和讚)
 私の所属する八王子仏教団では、毎月一回、市内の老人ホームで法話をする時間を取らせていただいています。八王子は浄土真宗のお寺が少ないために、真宗のお坊さんの話を聞いたことがないという方がほとんどなので、私が担当になったときは、まず浄土真宗をひらいた親鸞聖人とはどういうお方だったのかをお話することにしています。

非常識を選択

 親鸞聖人は一言で言うなら、たいへん正直な方でした。ややもすると世間の常識とは大きなズレを生んでいたこともあったようです。
 エピソードをひとつ紹介します。親鸞聖人が六十歳をすぎた頃のことです。聖人は鎌倉の北条時頼の下で一切経(仏教の全経典をはじめとして仏教関係の論文・注釈書などを集大成したもの)を書写したものの校正を手伝うこととなりました。世間では名が知られていなかった聖人は、このようなアルバイトをしながら暮らしていたのでしょう。
 作業は他の大勢の僧侶と一緒に進められました。仕事のあいまに食事が出されます。魚や鳥肉をふんだんに盛ったたいへんなご馳走です。
 他の僧侶たちは袈裟を脱いで魚や鳥に箸をつけます。僧侶たるもの、肉食はしないというのが当時の常識でした。でも、袈裟を脱いでいる間は僧侶ではないということにして、肉食をしていたというのもまた、普通の僧侶の常識だったのです。
 しかし、その中で親鸞聖人は一人、袈裟を着けたままで食事をしていました。
 当時九歳だった北条時頼はそれを不思議に思い、聖人に、なぜ脱がないの、と問いかけます。聖人ははじめは「いやあ失敗失敗、あまりすごいご馳走だったので、びっくりして脱ぐのを忘れてしまいました」などとごまかしていたものの、食事のたびに同じ言い訳は使えません。ついに聖人はこう答えます。
「他のいのちをいただいているのです。その申し訳なさを思えば、袈裟を脱ぐことはできません。」
 なお、この二年後、鎌倉幕府は「黒衣の念仏者」の追放令を出します。理由は「女人を近づけたり、魚鳥を食したりする」というもの。親鸞聖人の苦笑が目にうかびます。

私が、在る

 どうでしょう。昔の僧侶たちのご都合主義は笑えますが、これに類することは私たちの上にあまりにも近しく見られる行為ではないでしょうか。
 私たちはよく場面場面で無意識に自分の立場を使い分けています。でもそれは機転がきくようで、実は自分を見つめることから逃げているだけなのかもしれません。ここに在る自分を認めないでいるうちに、いったいいくつのいのちを鈍感に傷つけてきたことか。
 そればかりか、使い分けていたつもりの「立場」が、知らずに自分の主人になってしまって、逆に踊らされてしまうことにもなりかねません。
 親鸞聖人の胸にあった念仏は、その小器用さの危うさを見抜いて、聖人を揺り動かさずにはおきませんでした。念仏(=智慧のまなざし)は、私の責任の在りようを指し示してくださいます。私が私であることの誇りをいただいていく道を開いていくのが、念仏の大きなはたらきなのです。世間の常識よりも大事な、確かなものがあると教えてくださった親鸞聖人を偲ぶ報恩講の集いに、どうぞ御参りください。■

HOME