1998年12月

「あちらを立てれば こちらが立たず」
 我が家は、まさしく、この日々です。
 顕が本を読んでくれと言えば、潤はお外へ自動車を見に行こうと言い、夏菜がミルクがほしいと泣きさけべば、トムがエサをよこせとニャアニャアうるさい。
でも子どもたちはこうやって、がまんすることを覚えるのでしょう。
「お母さん 何でもがまんだね」御歳三歳のみぎり 私が母に言ったことばだそうです。泣けますネ。
 思っているだけじゃ何も始まらないんだってつくづく思った経験がありました。
 最近「手話」がちょっと気になっていました。
 築地本願寺でおこなわれた御法話に手話がついた話とか、うちの住職が障害者の方と一緒に伺った鎌倉のお寺では、御法話にも手話がついたとか。築地で手話をなさった方は本願寺派のお坊さんだったそうですが、鎌倉の時はまったくお寺とは関係ない普通のおばさんだったとか。
あちこちで「手話講習会」みたいなものが開かれているのは知っていますが、小さな子を三人もかかえている身となればなかなか機会がなくて。でも本を読んでもちょっとピンとこなくて。それが私のちょっとした一言がキッカケで、あれよあれよと言う間に、来年二月にそのチャンスに恵まれそうです。
 うちの宗派の多摩のお寺の女性たちの集まりである「多摩組寺族女性会」の二月の講習会に何かいいテーマはないだろうかと言われた時 ふと思いついて、発言してみたんです。「手話なんていかがでしょうか」って。
 井戸端会議ならともかく、少人数とはいえ発言するのってちょっとためらっちゃうところってありますよね。
 だから、顕の言葉を借りれば「ちょっとだけ勇気を出して」発言してみたんです。
 そうしたら、賛成してくださる方がいて。手話の資格を持っている方を知っている方もいて。トントントンと話が進んで 来年二月は「手話入門」ということに決りました。
 それからがちょっといろいろあったようですが、ともかく、なんとか、「手話入門」です。ちょっと すごいと思いませんか。
 だって考えているだけで言葉にしなければ、きっと今でも、何にも変らないで、考えているだけのままだったろうことが実現しちゃうんですから。
 だから もう一つ実現しないかなってあまい考えであちこちで言っていることがあります。「子連れ法話会」。
 毎月の法話会には いくらなんでも小さな子ども連れでは行けないけれど、ぜひ法話というものを聞いてみたいという人が私の廻りにもとりあえず二人いるから、その人たちから輪をひろげて。
 お話するのはうちの住職。だって自分の子どもたちで鍛えられているから少々のことにはびっくりしないだろうから。
 そうやって集まってくれた子どもたちが、いずれはお寺の子どもたちとして、育っていってくれたらうれしいな、なんて。
 あたたかくなったら、実現しないかな、住職さん。

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